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03:陰と陽

 

 どうせアイツは行き場のない兎だ。どこで彷徨ってるかくらい、お巡りの俺には見当がついてる。

「……なんで、来た」

 カタコトの日本語がいつもに増して聞き取りづらかった。

 うつ向いて傘を差したまま、公園のベンチに座ってるチャイナの正面に俺は立った。

「一つてめぇに言い忘れた事があった」

 チャイナは眩しそうな顔をして俺を見上げた。

 これから大事な話をするってのに、コイツはなんて不細工な表情を浮かべてるのか。だが、それがチャイナらしく思えた。

「旦那以外愛せねぇなんて思っているのは、旦那以外を知らねーからだ」

 コイツは旦那に色んな恩を感じているはずで、その感謝の気持ちや守られてる安心感を恋なんて勘違いしているんだろう。こういう女こそ、今まで触れることのなかった別の世界を知ると、泥沼にハマるが如く深く深く堕ちていく。俺はそんな様を見てみたいと思っていた。

「どいつもこいつも嫌なんて言ってりゃ、いつまでもてめぇは生き地獄だ」

「だから、もう良いって言ってるネ」

「一度踏み込んでみろよ。いつまでもガキでいたくねぇんだろィ」

“ガキ”このフレーズがチャイナにとっての禁句だった。だが、俺はそれをあえて口にする。バカを動かすには挑発するに限る。

「……じゃあ、どうすればいいネ」

 案の定、乗ってきたチャイナは強い眼光で俺を見る。

 だけど、そう簡単に旦那への気持ちが絶たれることがないのは分かってる。だから、毒を与えるように、じっくり時間をかけてチャイナを麻痺させる。

「とりあえず、俺に溺れろ」

 音も立てず蛇のように。

 なんて頭では考えていたが、俺も正直チャイナ相手には口説き文句の一つも出なかった。勿論、そんな台詞しか口に出来なかった俺を、チャイナは唖然として見ていた。そして、すぐにその顔を厳しい表情へと変えた。

 そりゃ、そうだ。とりあえずの手段がそんな事なんて、きっと納得がいかない筈だ。

「オマエ、バカにも程があるダロ!」

「俺は至って真面目でィ」

 躊躇う事なくサラリと言った俺を、チャイナは信じられないと言う表情で見ている。だが、これも俺の想定内。むしろ、筋書き通りだ。

「黙って俺に溺れろ」

「無理アル」

「いや、無理じゃねぇ」

「オマエを好きになるわけないダロ!」

「言ってろ」

 自分に気のない女に男を意識させるには、告白が一番手っ取り早かった。自分に好意がある事を知って、気にならないヤツはいないだろう。良い意味でも、悪い意味でも。

「無理だと思いたきゃ思ってろ」

 俺はそう言ってチャイナの隣に腰掛けた。するとチャイナは、俺との距離を広げるようにベンチの端へと移動した。

 そんなあからさまに嫌がるチャイナが、まだまだガキだと俺は思わず笑っちまいそうになった。

「近寄るナ」

「ただベンチに腰掛けただけだろ」

 こんな事になったのも自分が蒔いた種だってのに、随分と偉そうに言うもんでさァ。そもそも、チャイナが俺に打ち明けさえしなければ、こんなことにはならなかっただろう。それがチャイナの弱さであり、人間の愚かさってもんだ。

 苦しい時だけ縋って、藁をも掴んで……後から冷静になって考えてみれば、どうして藁なんてものを掴んだのか。今は丁度そんな事がチャイナの頭に浮かんでいる筈だ。だったら俺は、チャイナを長者にだってしてやれる程の値打ちがあるって事を見せつけてやる。テメェにただ掴ますだけじゃ、旦那は超えられねぇから。何よりもその前に、ただの藁だと投げ捨てられるのは、俺のプライドが許さなかった。

 俺は懐にある秘密兵器を使う決意をした。

「おい、遊園地行きたくねーか?」

 チャイナは黙ったまま何も言わなかった。

「返事くらいしろィ」

 傘に隠れたまま、ピクリとも動かない。表情は見えなかったが、奴ら貧乏人はそんな娯楽とは縁遠い生活を送ってるだろうから、絶対に行きたがる筈だ。

 だが、散々俺にキツイ態度をとっていながら、今更行きたいなんて言えねーんだろ。

 俺は懐から遊園地の無料招待券を出すと、わざと一枚地面へと落としてみた。

「あ、いっけね。手が滑っちまった。落ちたもんに執着するほど貧乏じゃねぇしこのままにしとくか。えっ、欲しい? じゃあ、やるよ」

 俺はそれだけを言うと遊園地へ向かおうと、公園の出口へ足を進めた。

 このあと、チャイナがどうするかは分からなかった。俺の後を追い掛けてくる気配はない。たとえ拾ったとしても俺と一緒に行くとは考えづらかった。

 秘密兵器は何の戦力にもならない……本当はただの思いつきで、行き当たりばったりだ。余裕なんて微塵もなかった。

 俺の足は一旦止まると、ついて来ないチャイナに行き先を遊園地から屯所へと変更した。

 

 その道中、また万事屋の旦那を見かけた。さっき見た女とはまた違う女と歩いていて、先ほどのチャイナの曇った表情が頭に過る。思わず俺は奥歯を噛み締めた。

 いつも以上に腑抜けた旦那の横顔に嫌悪感すら覚えた。

 その眼差しの1%で良いから、アイツに向けてやる事は出来ないのだろうか?

 それでアイツが、チャイナが満たされるかは分からなかったが……って、俺ァ何やってんでィ。変な小細工までしてチャイナを溺れさせようなんて。下らねぇ。

 アイツの旦那を想う気持ちは充分わかっていた。何が幸せかなんて、チャイナ自身が決める事だって。

「……そういや、まともに朝食とってねーや」

 俺の足は更に行き先を駅前通りに変更すると、屯所とは反対方向へと向かった。

 

 

 

「ついさっきまで居たんですけどね。確か、隊長が戻ってくる十分くらい前まで。一応、ケータイに電話しようかって聞いたんですけど、いいって」

 屯所へ昼過ぎに戻れば、廊下ですれ違ったザキがチャイナの訪問を俺に知らせた。

 ザキもどうやら今日は珍しく暇そうで、勤務中にも関わらずバドミントンのラケットを小脇に抱えていた。俺はそれに腹が立ってザキにヘッドロックをかけると、更に通りすがりの近藤さんが俺に言った。

「おぉ、総悟。帰ってたか。さっきチャイナが訪ねてきてな、総悟にこれ渡してくれって。何だお前ら? 遊園地でも行くのか?」

 俺は顔を真っ青にしているザキを離すと、近藤さんからどこかで見た紙切れを預かった。

 あのアマ……

「行くわけねぇでさァ。俺とアイツが遊園地なんて」

 考えなくてもわかんだろ。アイツは俺とどうかなりたいなんて、一ミリも望んじゃいねぇ。アイツは旦那以外に惹かれたりしねぇ。アイツは助けてなんて一言も言ってねぇ。アイツは……

 俺は遊園地のチケットをまた懐へしまうと、自室へ戻った。

 部屋へ入れば殺風景な部屋の真ん中に座布団が数枚敷かれていて、何となくそこに寝そべるチャイナが想像出来た。

「片付けてから帰れよ」

 そう言って落ちている座布団を手にすると、まだ微かに温かく、つい先ほどまでチャイナがここに居たことを表していた。

 普段は俺以外誰も入ることのない部屋。そんな場所に客人としてチャイナが居たことが可笑しかった。変な感じだ。

 なんでチャイナは俺を待ってたのか。直接チケットを返す為にか? それとも別の何かを俺に告げる為にか? どっちにしてもチャイナが俺に返却したってことは、旦那を諦めきれなかったって事なんだろう。

 だが、すぐに後を追って返さないところを見れば、少しは揺れたのかもしれなかった。

 てめぇの瞳に俺の背中はどんな風に映った? せめて旦那のモノよりは真っ直ぐに見えたと言ってくれ。でなきゃ、納得できねーや。

 

 その日の夜の事だった。

「辛い」

 そう言って泣いてるチャイナの夢を見た。

 何度言えば気が済むのか。現状を打破する覚悟もねぇ癖に、弱音ばかり吐きやがって。

 薄いガラス板一枚隔てた向こう側で、たださめざめと泣くチャイナを俺は見ているだけだった。

 あの日と同じで俺は立ち去れなかった。コイツの涙が俺を縛り付ける。そして、気付けば右手には金槌が握られていて、目の前のガラス板をなんなく壊せる事を知った。

 もし、これを打ち付けてガラスが粉々に砕け散ったら、俺はどうする? チャイナの涙を拭いてやるのか? それとも、また取っ組み合いか?

 そんな事を考えていると、またチャイナが言った。

 辛いと。

 その表情と声が俺の胸を激しく揺さぶった。

 なんでィ、これは――

 チャイナの片手がガラスに伸びてきたかと思ったら、ぺたりとガラスに合わされた。

 それを見ていた俺も同じように片手を伸ばすと、ガラス越しにチャイナと手の平を合わせた。

 チャイナはそれに泣き止むと不思議そうな顔で俺を見つめた。そして、もう片方の手の平もガラスにくっ付けた。

 俺もまた真似ようと思ったが、生憎そっちの手には金槌が握られていた。

 捨ててしまうか?

 だが、何故だかそれを手から離すと、もう二度と手に入らないような気がした。

「早くオトナになりたいアル」

 不意にチャイナがそう溢した。チャイナの吐息でガラスが曇る。俺はそれに唾を呑み込んだ。

 やめろよ。

 だが、チャイナは乞うような目付きになると、俺を見つめ上げながら口にする。

「……今すぐオトナになれたら良いのに」

 そう言ってチャイナはガラスに唇を付けた。

 俺は、俺はどうする?

 金槌を握り締めてる右手を見つめた。これをあのガラス目掛けて振り下ろせば、いくらでもアイツをオトナにだってメス豚にだってしてやれるだろう。けど、俺はその手を動かす事なく、ガラス一枚を挟んでチャイナと口付けをした。

 冷てぇや。

 こんなに近くにいるのに、チャイナの熱どころか気配すら感じる事が出来なかった。

 嗚呼、俺は結局こんな薄っぺらいガラス一枚すら破る事が出来ず、アイツを溺れさそうなんて思ってたのか。これじゃ、口だけの安い男と変わんねーや。イミテーションで着飾った男と。

 そんな事は分かってはいたが、まだガラスを砕く勇気はなかった。覚悟も。

 まだ動けない。

 チャイナ自身がこの俺に“助けて”と言わない限りは、ガラス板一枚、打ち破ることすら出来そうになかった。