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01:陰と陽

 

「もう辛いアル」

 チャイナが何故俺に言ったのか。

 いつも勝ち気なアイツが――ましてや、俺にそんな弱音を吐くなんて思いもしなかった。

 これを俺は素直に受け取るべきなのか。

 目の前のチャイナは、この俺に救いを求めてるんだろうか。

 その真っ青な瞳をいくら覗いたところで、チャイナの思惑を読み取る事は不可能だった。

 

 いつからだったか。俺はチャイナが万事屋の旦那にただの懇意だけじゃなく、それ以上の想いを寄せてる事に気付いてた。当の本人はまさかバレてるとは思ってないのか、気にしてる素振りを見せる事はなかった。旦那自身はどうなのかは知らなかったが、俺から見る分には、チャイナと旦那がどうにかなる関係には到底見えなかった。

 ただ、チャイナはそれを頭では理解していても、胸の中はその事実を受け入れられないようで、時たま俺に洩らすようになった。

「なんで私、子供アルカ」

 初めはその言葉の意味が分からなかった。

 確かあれはまだ真夏の暑い時期で、公園のベンチで溶けかけたアイスキャンディーを口にしながら俺は適当に話を聞いていた。

 上着も脱いで暑さにやられている俺の隣で、チャイナは番傘をさしながら遠くを見つめていた。

「なんでって。そら、テメーがまだ成人してねぇからだろィ」

 なんて当たり前の事を言う女だと隣を盗み見れば、チャイナは珍しく俺に笑いかけていた。その瞬間、口へと運ぼうとしたアイスの棒からぽとりと滴が落ちた。

「早く大人になりたいアル」

 それでようやく、さっきチャイナが言った言葉の意味が俺にも分かった。

“なんで子供なのか”

 それにしても面倒臭い。

 既にこの時、俺はチャイナの旦那への気持ちに気付いていた。だからってワザワザ口に出して確認はしねぇ。素直にチャイナが認めないのを知っているから。その癖、こうして俺に“察して”と言わんばかりな発言をする。

 本当に面倒臭い奴でィ。

「嫌でも大人になんだろィ。そんなに急ぐことでもねーだろ」

「……今すぐになれたら良いのに」

 その日からチャイナと公園で出会う度に、そんな答えの出ない会話を繰り返した。

 大人になりたい、子供のままがいい。

 チャイナと俺の意見が交わることはなく、いつも平行線を辿っていた。たまに苛ついて取っ組み合いにもなったりするが、チャイナは懲りず、出会う度にその話をする。多分、俺以外にこの話はしてないんだろう。と言う事は、俺だけしかチャイナの気持ちに気付いてない可能性があった。

 だが、他人の色恋に興味なんてねぇ。チャイナが旦那とどういう結末に至ろうが、俺には関係なかった。

 旦那がチャイナに手を出すとも思えなかったし、反対にチャイナが旦那を諦めるとも思えなかった。旦那が朝帰りをしても、キャバクラに飲みに行っても、キスマークだらけで帰って来ても、チャイナは嫉妬する事もなく、旦那へのだらしなさをただ指摘するだけだった。こんなにも動じないなら、一生旦那だけを見つめて生きていけそうだと思った。

チャイナが諦めるとすれば、よっぽど何か決定的になるような出来事でもなきゃ、その気持ちに変化が生まれる事はなさそうだった。

 力だけじゃなく、そんな所まで強いのかよ。

 俺はチャイナを相変わらず、可愛くねぇ奴だと思った。

 どこか人間脆さもなきゃ、愛されねぇのにな。

 そう思った俺は大いに反省する事となった。

 一方向からしかチャイナを見てなかった俺は、チャイナの陽の部分だけをきっと見てたんだろう。それが何だって話だが、まさかこの俺がチャイナの陰の部分を目の当たりにするとは思ってもみなかった。友人でも仲間でも何でもないこの俺が。

 ただ、チャイナにとって都合が良かったんだろ。そうとしか思えない。

「もう辛いアル」

 声を震わせながら呟いたチャイナは、そろそろ仕事に戻ろうとベンチから立ち上がった俺の背中を掴んだ。

 アイツが俺に触れるなんて考えられない事だった。振り返るとチャイナは俺を悲痛な表情で見ていた。

 何をどうしろって……

「旦那のことか?」

 さすがに隠しきれないと思ったのか、チャイナはコクリと頷いた。

 俺は仕事の合間に休憩の為に公園に立ち寄ってただけで、チャイナの話を聞くつもりは微塵もなかった。なのに、チャイナは俺に心情を吐き出す。

 俺に何を望んでいる?

 チャイナの苦痛に歪む表情は、次第に目に涙を溜めだす。俺はきっとそれを酷く冷めた眼差しで見ていた筈だ。

 女の涙はヘドが出る。大嫌いだ。

「旦那にその辛い気持ち、まんまぶつけてこいよ。何一つ関係ない俺に言ったところで、テメーの気分がどうかなるワケでもねぇだろィ」

 チャイナの手を振り払って俺は公園を出ようとした。

 だって、俺には関係ないだろィ?

 そう思う一方で、俺は足を動かせずにいた。

 チャイナは俺に何を求めてる? 慰めの言葉?

 なんの捻りもなくこの状況を察するなら、チャイナは俺にすがりたいと思っているんだろう。

 俺を掴む腕の力は強いくせに、俺を見上げる瞳にはこれっぽっちも強さは見つけられなかった。

「……情けねぇな」

「私だって強いばかりじゃないアル」

「だったら何でィ」

 そんなこと人間なら当たり前だろ。どうしてコイツはそんな当たり前な事ばかり口走るのか。相変わらずバカな女だと思った。

 それならば、このバカに俺は人間の弱さを徹底的に教え込んでやりたいと思った。

 弱さが何を招くのか。俺はそれを頭で軽く想像してみると、思わずニヤリと歯が溢れた。

「なに笑ってるアルカ」

 焦った顔のチャイナが益々俺を刺激して、愉快で堪らなくなった。

 きっと俺は完全なるサドだ。

 自分でそれを改めて確信した。

「なくもねぇ」

 チャイナは首をかしげて俺を見ていた。

 優しさとは呼べるものじゃねぇが、本気でチャイナが辛さから解放されたいなら、俺は手を差し伸べてやる気でいた。

「てめぇを救う手立てはあるって言ってんだよ」

「本当アルカ?」

 チャイナは俺の背中から手を離すと、次は俺の腕を掴み揺すった。

 ちったァ離れろィ。そんなに辛いのかよ。

「この気持ち、木っ端微塵に消し去れるアルカ?」

「要は旦那を忘れられりゃいいんだろィ」

 きっとチャイナの目的はこれだろう。早く大人になりたいなんて普段から口走ってんだ。望んでる事はこれしかない筈。

「簡単な話、他の男に溺れりゃ良いだろ」

 チャイナは俺を揺すっていた手をピタリと止めると、急に腕から手を離した。

「そんなの何度も試したアル。だけど、無理だったネ。他の男なんて……銀ちゃんと比べようもないネ」

「本当に試したのかよ」

「試したって言ってんダロ」

 

 コイツは所詮ガキだ。試したなんて言ってるが、どう考えてもやった事と言えば、他の野郎を見て“私はアイツが好きだ”なんて自分に暗示をかけた事くらいだろう。そんなもんじゃ、旦那を諦めきれるわけがない。

「変わる努力はしたんだろーな」

「変わる? 努力?」

「あぁ。てめーがそれを怠ってりゃ、変わるもんも変わんねぇでさァ」

 チャイナは厳しい表情で遠くを見ていた。

 まだ、旦那を諦める事を諦めきれてねぇんだろう。

 迷いのあるカオをしていた。

「じゃあ、俺は行く。てめぇにその気があんなら、明日にでも俺を訪ねてきなせィ」

 俺は突っ立ったままのチャイナにヒラヒラと手を振ると、公園を抜けてまた江戸の街の喧騒へと戻って行った。

 一人残されたチャイナが何を思ったか。俺は知らずに明日を迎える事となった。