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優しい毒:03

 

 沖田は安心しきって眠っている神楽を放っておくと土方を追った。どうやら何か急用があって訪れたらしく、洗面をする土方の後ろに立った。

「昨日の夜、柳生家の使いの者が来てあんたに言付けを頼まれた」

「あぁ、悪かったな。それで用件は何だ?」

 沖田は洗面所の戸枠に体をもたれさせると、腕を組んで土方に言った。

「志村の姐さんが――白詛に」

 土方は顔を洗っていた手を止めると、濡れた顔のまま正面の鏡を覗いた。

「……そうか」

「あの女、知ってるんですかねィ。呑気に眠ってるみてーだが」

 土方は乾いたタオルで顔を拭うと沖田を見つめた。

「だから、あいつの隣にあの眼鏡がいねェんだろ」

 そう言って使用したタオルを適当に置くと、土方は沖田の横を通り過ぎて行った。

 

 たっぷり睡眠をとった神楽は、土方と沖田と共に食卓を囲んでいた。

「なんでアンタまで居るわけ?」

 神楽は自分の右隣に座る沖田に言ったのだが、沖田は神楽の言葉には答えずに美味しそうに味噌汁を飲んでいた。

「俺から言わせりゃテメェこそ、なぁに朝飯まで食ってんだ」

 神楽の正面にいる土方がそう言うと、神楽は耳まで赤くなった。何と無く居心地の良い雰囲気に、つい相伴に預かってしまったのだ。そんな自分の図々しさを指摘されると、急に恥ずかしくなった。

「この米も野菜も総悟が手に入れて来たもんだ。黙って食えねェってなら今すぐ帰れ」

 神楽は沖田を睨むような目付きで見るも、なかなか質のいい米だと礼を言った。

「腹立つくらい美味しいわ」

 すると沖田は土方の方を見つめ、茶碗を指差した。

「その良質の米を犬のエサに昇華させるのは良いでござるか? そんな無駄遣いするなら食うなと言っている」

「犬のエサ言うなッ!」

 土方は箸を乱暴に置くと、沖田の体を掴みに掛かった。

「じゃあ、アレだ。明け方の道端に落ちている……」

「てッめェ! それ以上言ったらぶっ殺すぞ!」

 神楽は目の前で馬鹿に騒ぐ二人に、どこか温かい気持ちになった。昔に戻ったような懐かしいような。神楽は二人を呆れたような顔で見るも、ちっとも嫌だとは思っていなかった。寧ろ、こんな風に騒いでいると少しは気も紛れた。嫌なことを思い出さないで済むから。しかし、そんな事も言っていられないと、食事を終えた神楽は帰り支度をするのだった。

 

 神楽は銀時の着物を風呂敷に包むと、それを持って客間から出ようとした。しかし、通り道はエセ抜刀斎によって塞がれると神楽は足を止めた。

「旦那が知ったら何て言うかねィ」

 沖田は口に長い楊枝を咥えたまま、そんな言葉を神楽に投げた。神楽は沖田が何を言いたいのか分からず、軽く首を傾げると片手を腰にあてた。

「さぁね。何て言うのかしら」

 沖田は神楽の前から退くと道を開けた。

「安心しきって眠ってたみてぇだが、隣に男がいることに慣れてんのか?」

「隣に?」

 神楽は眉間にシワを寄せた。まさかとは思うが、土方が隣に眠っていたとでも言うのだろうか? 沖田に詳しく尋ねようとしたが、沖田は神楽に背を向けると玄関から出て行ってしまった。

「隣にってどういう事?」

 神楽は昨晩の事を思い起こしてみると、そう言えばいつの間にか布団で眠っていたのだ。自分で移動した記憶はない。土方の部屋で風呂から上がる土方を待っていて……。昨日の夜は珍しく安心して眠れた。それは銀時の夢を見たからだ。温かくて甘い匂い。確かに神楽はその手に頬に耳に銀時を感じていた。今もまだ心の奥が熱を帯びている。しかし、その全ては夢であった筈だ。事実は一体どうだったのか。幻でないのなら――――――神楽は慌てて土方の部屋へ行くと襖を叩いた。

「私、帰るから! 世話になったわね。じゃあ」

 神楽の頬は紅く、随分と落ち着きがなかった。頭の中に浮かぶ映像がそうさせていたのだ。隣り合って眠る自分とあの男。掴んだ手も頬を寄せた胸も聞こえた声も、全て土方のものであった。その事実は確かなものではなかったが、沖田の言葉から推測するに間違いないと断言出来た。

「おい、待て!」

 土方は襖を開けると、逃て行こうとする神楽を呼び止めた。思わず足を止めた神楽だったが、情けない顔は見せられないといつものすまし顏で土方を返り見た。

「何?」

 すると土方は火のついた煙草を咥えたまま神楽に詰め寄った。独特の甘い匂いが煙と共に漂う。それを神楽は確認すると、昨晩隣に居たのはこの男だったことを確信した。

「もう甘えるな」

 土方は鋭い目付きで神楽を見下ろすとそう口にした。

――――分かってるわよ。

 神楽は答えようとして、まだ土方の言葉に続きがあることに気が付いた。

「……なんて事は言わねェ。だが、甘えろと言うつもりもねェ。それはテメェが決めりゃあいい」

 神楽は土方から視線を逸らすと廊下の壁を見た。なんで土方はこんな言葉を掛けて来るのだろう。神楽には理解が出来なかった。見返りを求めているわけでもなく、何かそこに義務があるわけでもない。理由があるとするならば、それは万事屋である自分と同じ事のような気がしていた。見過ごせないのだろう。

「そう。分かったわ」

 神楽は寂しそうに笑った。そして、土方に背を向けると玄関へと向かった。土方はそんな神楽の背に向かい煙を吐きかけると、神楽に届くか届かないくらいの声で言った。

「万事屋の代わりは……二度と御免だ」

 神楽は振り返る事なく土方の屋敷を出た。見上げた空は青く澄み渡り、清々しい天気であった。気分も悪くない。それは土方の言葉や伝わって来た優しさのせいなのかも知れない。神楽はこの星に一人ではない事を知ると、また少し強くなれた気がしたのだ。これからは万事屋グラさんとしてこの町を護る。銀時の着物を手に神楽は固く誓うのだった。

 

 ◇

 

 その後、銀時の形見である着物をチャイナドレスに誂えてもらった神楽は、万事屋グラさんとして活躍していた。それと同じ頃、新八も万事屋新八っさんとしてこの町を護っていた。偶然、同じ現場に駆け付けて顔を合わせる事があるが、会う度に喧嘩になり、神楽は正直ウンザリしていた。たまには憂さ晴らしにお登勢のスナックにでも顔を出そうかなんて考えるのだが、新八がいるかも知れないと思うと避けてしまうのだった。

 何とか生活は出来ていた。土方に拾われたあの夜から人の手を借りることも覚えたのだ。そのお陰で最近は、町内の者たちと助け合いながら生きていた。その輪の中に新八とお妙の姿が見えないことは辛かったが、もう進むしかないと涙を流すことはなかった。とは言え、二人の……お妙の病状が気になっていた。時間が出来るとお妙が入院している病院へ向かうことはあったが、そこには絶えず新八がいた。病室に入れない神楽は、いつもそっと窓の外から様子を眺めていた。しかし近くで見なくとも、お妙の病状が深刻であることは……悲しいくらいよく分かった。色素の抜けた真っ白な髪と青白い顔。神楽は何もできない自分に苛立ちを覚えるも、窓辺に花を置き立ち去るのだった。

  病院からの帰り、神楽はいつも不安に襲われた。銀時の失踪に始まり、壊れていく世界を見ながら何も出来ず、今度はお妙までをも奪われようとしているのだ。何かを失うことには慣れている気でいた。だが、やはり抱えている大切なものをその手から引き千切られてしまうのは…………とても辛い。何も出来ないやるせない気持ちが神楽をたまに押し潰そうとする。無力でなんて不甲斐ないのだと。そんな時、神楽は土方の言葉を思い出すのだった。

「甘えるのも甘えないのも私の勝手、ね……」

 土方とはあの日以降、会うことも屋敷にも近付くこともなかった。何故か簡単に頼ってはいけない相手に思えるのだ。それは今まであの連中に頼るなど考えたことがなかったせいなのか。何が自分にブレーキを掛けるのか分からないが、土方とは敢えて距離を置いていた。だが、今夜は新月のせいなのか、闇に飲み込まれそうな気分であった。これが“孤独”と言うものならば、誰かに会って自分を保ちたい。神楽は住んでいる長屋を出ると、定春を残して土方の屋敷へと向かった。

 

 居るかどうかは分からない。ただ、居たら居たらで何て言おうか。神楽は理由を考えてはみたが何も思い浮かばず、だからと言って“ただ隣に居て欲しい”なんて事は死んでも口に出せなかった。自分ではいい大人の女だと思っているのだ。そんな夜を恐れる子供のような事は言えなかった。

 神楽は土方の屋敷に着くと玄関からではなく裏庭に回った。しかし、そこまで来た所で急に帰りたくなったのだった。

――――もし、誰かが来ていたらどうする?

 その誰かとは沖田や山崎ではなく、オトナの良い女であった。神楽は縁側の閉まっている雨戸に耳をつけるも、室内は随分と静かなものだった。居ないのだろうか? 神楽は改めて玄関に回ると戸を何度か叩いてみた。すると玄関に明かりが灯り、引き戸に薄っすらとシルエットが浮かび上がった。

「誰だ」

 神楽は私よと小さく答えると、戸はすぐに開かれた。土方の瞳孔の開いた瞳が神楽の訪問に驚いていることが窺えた。神楽はやや俯き加減で土方を見上げると、僅かに微笑んだ。

「甘えるも甘えないも、私の勝手なんでしょ?」

「すっかり忘れてると思ってたがな」

 土方はそんな事を言うも神楽を家に招き入れると、真っ暗な外を軽く見渡した。そして、他には何者も入って来ないようにと、引き戸の錠を下ろしたのだった。

 

 特に何という話もない。土方は自室に篭っていて、神楽は持って来たパジャマに着替えると客間の布団の上でゴロゴロしていた。たったそれだけの事なのに、神楽は孤独とは遠い所にいる気がしていた。万事屋に居た時もそうだった。銀時が同じ空間にいると言うだけで安心出来たのだ。また銀時の事を思い出してしまった。神楽は頭を振ると、込み上げてくる想いを掻き消した。しかし、ここでなら夢で銀時に会える気がする。そんな事を考えていると、客間の襖が叩かれた。

「オイ、起きてんのか?」

 神楽は寝たフリをしようかとも思ったが、布団の上に体を起こすと返事をした。

「まだ起きてるけど」

 すると襖が開かれて、浴衣姿の土方が何かを持って入って来た。見れば一升瓶で日本酒のようだった。

「付き合え」

 そう言って畳の上に胡座をかいた土方は、何の疑問を抱くことなくグラスに酒を注いだのだった。

「飲めよ」

 しかし神楽は今まで酒など一口も飲んだ事がない。何故なら神楽はまだ二十歳に達していないのだ。差し出されたグラスを受け取ったは良いが口をつける事が出来ず、しばらく並々と注がれた酒を見ているだけだった。土方はいつまでも酒を飲まない神楽にようやく疑問を抱いたのか、持っていたグラスを盆の上に置いた。

「まさか飲めねェのか? ガキじゃあるめェし」

 神楽はその言葉にムッとするとグラスに唇をつけた。だが、スグに無理だと遠ざけた。

「まだ19だっつーの。それにこんな物の何が美味しいのよ!? ペッペッ!」

 既に顔を上気させている土方は神楽の発言に驚いた表情になるとグラスを奪い取った。そして、それを一気に飲み干すと、座った目で神楽に言った。

「って事はテメェ、まだガキじゃねェか」

 すると神楽は土方の隣に場所を変えると、一升瓶を手に持った。

「こんな上手に酌するガキがいると思うの?」

 土方は鼻で笑った。

「日本酒の酌に上手いも下手もねェだろ」

 そう言うと、景気の良い飲みっぷりで土方はグラスを空にした。神楽は空いたグラスにまた酒を注ぐと、スナックお登勢でよく晩ご飯を食べたことを思い出した。

「……銀ちゃんね、いつも私がお酒を注ぐと“お前みてーなガキに注がれても旨くねぇんだよ”なんて言って酒瓶取り上げるの」

 土方はまた鼻で笑うと、静かに酒を飲んだ。

「今なら黙って飲んでくれるかなぁ……なんてね」

 すると土方はいいやと首を左右に振った。神楽はそれを不思議そうに見つめていて、否定された事に怒るよりも驚いたのだ。

「どの道、野郎は注がせねェだろう。飲み過ぎちまうんじゃねェか? 酌が上手すぎてな」

 そう言っていたずらに笑った土方に、神楽は更に驚いていた。こんな顔をするのだと。

「その割りにあんたのグラスは空かないけど?」

「トシ様と呼べ」

 突然そんな事を口にした土方に神楽はその顔を見上げると、今の発言が酔っ払いの戯言なのか見極めようとした。既に顔は赤く、目は座っている事から、かなり酔っている事が窺えた。神楽は土方のグラスを勝手に下げると、もうこれ以上飲ませない方が良いと判断した。だが、当の本人はまだ飲み足りないらしく、神楽のその行為に不満そうであった。

「おい、何してる。貸せ」

「自分の顔、鏡で見てみなさいよ! って別にあんたの事を心配して言ってるんじゃないんだから! 勘違いしないでよね!」

 神楽はグラスを取ろうとする土方の体を腕で押しやると、よろけた土方は簡単に布団の方へと転がった。神楽は呆れたと言わんばかりの表情で倒れ込んだ土方を覗き込んだ。

「ゲロ吐いたって知らないんだから!」

「けッ、なんて面してやがる」

 土方は軽く笑いながら覗き込んでいる神楽の眉間を人差し指で突いた。どうもそこに深い溝が出来ているらしく、神楽は土方の手を払い除けた。すると土方の手は神楽の髪に絡まったまま後頭部へと回った。それにグッと力が加えられる。

「……ちょっと!?」

 神楽はその顔に焦りの色を見せたが、どうやら神楽が思っているものとは違うようだった。近付いた土方の唇が言葉を紡ぐ。

「今夜はここで寝かせてくれ」

 土方の息が顔にかかった。本当に近い距離。神楽は体の奥の方からムズムズとしたものが這い上がって来るのを感じると、目眩がした。息が詰まるような苦しさだ。見えている土方の表情は至って真面目で、なのに今ならふざけていて、どんな事でもやってしまいそうな雰囲気であった。神楽は自分が寝るはずの布団ではあったが、土方の言葉に軽く頷くといいわと答えた。もう早く解放されたいのだ。土方は神楽の返事を聞くと瞼を閉じ、神楽の頭から手を離した。その手はゆっくりと元の位置へ戻りながら、神楽の長い髪を指に絡めて行った。そんな一つ一つの土方の動きに何故だか心臓が騒ぐのを感じていた。触れられた髪まで熱くなってしまった気がするのだ。

――――なんなの、こいつ。

 神楽は眠ってしまった土方に布団を掛けてやると、自分はどうしようかと悩んだ。分かっている上で隣に眠る事など出来る筈がないのだ。仕方がなく帰る用意をすると、客間の明かりを消した。だが、もう気持ちはここへ来る前とは違っていた。

――――また少し前へ進めそう。

 神楽は静かに襖を閉めると、自分の住む長屋へと帰ったのだった。