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優しい毒:02

 

 食事を終えた神楽は客間でゆったりと寛いでいた。裏庭の定春も何かをもらったのか、満足そうに舌舐めずりをしている。すっかりと一人と一匹は居心地の良さを感じているようだ。神楽は畳の上に寝転がると天井を仰いだ。古ぼけた家ではあったが、それなりに手入れも行き届いており、そんなに質は悪くないと思っていた。さっきの食事もそうだ。このご時世にしてはいい米であった。

――――さては公務員時代に相当溜め込んでいたか?

 神楽はそんな勘繰りをしたが、所々に飾られている花や絵画に何と無くその理由を嗅ぎ取ったのだ。そんな事を考えていると、色素の薄い長い髪を畳の上に見つけた。いや、黒い長めの髪もあった。

――――これは間違いない。

 神楽は体を起こし帰る用意をすると、土方が姿を現さない内にここから出て行こうとした。見返りを求められては困るのだ。神楽は静かに部屋から出ると、玄関ではなく定春のいる縁側へ回ろうとした。しかし、古い床板は歩く度にギシリと軋む。そのせいで奥に居た土方が、こちらへと顔を出した。

「何してんだ」

「ひぃーーーッ!」

 神楽は情けない声を上げると、後退りをした。

「はぁ? おい!」

 神楽は土方に背を向けると、さっきの客間まで急いで戻った。しかし、どん詰まりで自ら袋に飛び込む形となった。あの男はこうして女を助けては、上手いこと言って貢がせてるに違いない! 神楽は土方の暮らし振りから、そんな事を疑っていた。

――――貧乏な私は一体何を奪われる!?

 神楽はそれを想像すると、眩しいくらいに輝く自分の体を思い浮かべた。しかし、それを差し出すワケにはいかない。神楽はブルっと体を震わすと、その身を抱いた。

「おい、急に何のつもりだ」

 土方は自分を見て逃げ出した神楽に、不愉快だと言わんばかりの顔をしていた。それには神楽も悪いと思ったのか落ち着きを取り戻すと、腕を組んで強気な態度で言ったのだった。

「別に逃げたわけじゃないんだから。勘違いしないでよね!」

 土方は額に手を当てると頭を振った。そして、客間から出て行く前に神楽に尋ねた。

「何でも良いが、風呂を沸かした。入るか?」

「お風呂?」

 神楽はどうしようかと悩んで、視線を横へと流した。入りたいと言うのが本音だ。出来ればその後、暖かい布団で眠れたなら最高だなんて考えていた。しかし、そんな事を無償で提供してくれる男など存在するわけがないと思っていた。もし、いたとすれば余程のお人好しか、底抜けの馬鹿であると。いや、神楽は一人そんな男を知っていた。坂田銀時だ。稼ぎに対して消費するものの方が多い神楽を、銀時はずっと側に置いていたのだ。何かを強いたことはない。ただ勝手に神楽や新八が銀時と共に生きたいと、万事屋をやっていたのだ。神楽は銀時の優しさや温もりを思い出すと、胸の奥が苦しくなった。空いてしまった心の穴が疼くのだ。そんな神楽の異変に気付いたのか土方は神楽に近寄ると、切れ長の目で神楽を見下ろした。一見して冷たく映る瞳だったが、神楽は何故か嫌な気持ちにはならなかった。

「何考えてるか知らねェが、テメェを取って喰おうなんざ微塵も思っちゃいねェ」

 神楽はそんな事を言った土方が平気そうに見えて、案外傷付いていることを知った。常日頃、銀時に言われていたのだ。男は獣なんだと。警戒し過ぎて損は無いと。しかしその教えが、時には人の優しさを踏みにじる結果になる事を神楽は知らなかった。神楽は組んでいた腕を解くと、長い髪を耳にかけた。

「……そうじゃなくて、今が正念場って言うか。とにかく人に頼ってちゃダメなの」

 先ほども土方に気負い過ぎだと言われたが、神楽はここで頑張らないともう一生銀時にも新八にも追いつけない気がしたのだ。

「なら、これならどうだ」

 土方は突然、財布から札を取り出すと神楽の手に握らせた。

「依頼だ。今夜くらいは甘えろ。あとの事は知らねェ。テメェがどう生きようが俺は何も言うまい」

 何かを察したのか、土方はそんな言葉を神楽に掛けた。神楽はくしゃくしゃになった札を眺めると、下唇を噛み締めその場にしゃがみ込んだ。自分はもっとずっと大人だと思っていた。強くて真っ直ぐで何にも負けないと。しかし、本当は苦しくて辛くて仕方ないのだ。何よりも銀時に会いたくて、新八と笑い合いたくてどうしようもないのだ。その気持ちに押し潰される事を恐れて反発していたら、いつの間にか一人ぼっちになっていた。それはどんな悪と戦うことよりも、ずっと痛みを伴った。

 神楽は小さな風呂敷包みを持つと立ち上がった。そして、土方に札を突き返し、髪を揺らした。

「返すわ、それ。覗かれでもしたら堪らないから」

 土方は一瞬驚いたような目になるも、神楽が風呂へ向かうことに気が付いたのかニヤリと笑った。

 

 檜で出来た大きめの湯船。神楽は手足をグッと伸ばすと窓の格子から覗く月を見ていた。新八も同じ月を見上げているのだろうか。ふと神楽はそんな事を考える自分が嫌になった。あんな別れ方をして尚まだ新八と――銀時と万事屋をもう一度やれないかと、心の何処かで思っているのだ。

「馬鹿みたい」

 神楽は自分に対して文句を垂れると目を閉じた。

――――もう忘れなきゃ。

 そんな風に思うのに、瞼の裏に蘇るのは楽しかった万事屋の日々。それをぶち壊して、無かったものに出来るならどんなに楽だろうと、神楽は胸を押さえた。しかし、万事屋グラさんとして踏み出す為には、自分を甘やかす思い出と決別しなければと自覚していた。だが、急に気持ちを改められる程、割り切った考えを持ち合わせてはいなかった。

――――きっと、皆そうなんだ。この町の人も新八も私も。

 変わってしまった世界に、そう簡単に順応出来る者などいないと知っていた。どんな人も、もがき苦しみ必死に泳いでいる。そう考えれば、自分もこの世界に一人ではないと思えるのだった。実際にこうして親切にされている。理由や思惑は分からなかったが、自分が万事屋としてこの町を世界を救いたいと思うように、土方も自分を救いたくなったのだろう。神楽はそんな事を考えて額の水滴を拭うと、紅い頬で風呂から上がったのだった。

 

 万事屋から持ち出したチャイナドレスに着替えると、神楽は濡れた髪を乾かしながら客間へ戻った。しかし、土方の姿は見つからず、神楽は不慣れな屋敷を適当に歩いた。すると、明かりの漏れる部屋があり、廊下に立つ神楽は部屋の襖を軽くノックした。しかし、返事はない。神楽はどうしようかと思ったが、居るんでしょと声を掛けると襖を開けたのだった。

「お風呂ありが……って寝てる」

 見れば卓上の照明もつけたまま、土方は座卓に突っ伏し眠っていた。無理もなかった。時刻は既に真夜中で、攘夷志士となった今も忙しいらしく書類の山に埋れていた。神楽はふぅと息を吐くと、部屋の中を見回して押入れから毛布を取り出した。それを眠っている土方にそっと掛けると、昔にもよくこんな事をしたなんて思い出した。どうやら体に染み付いてしまっているらしい。酔っ払って夜中に帰ってくる天パ頭の誰かのせいで。しかし、こちらは仕事に根を詰めて疲れているわけで、銀時とは随分違うと可笑しく思った。神楽は柔らかい表情になると部屋を出ようとして、畳の上にまで溢れている紙を足で踏んづけた。見る気は無かったのだが何気無しに紙を拾い上げると、書類に書かれている文章が目に入って来た。神楽はそこあった文字に驚愕した。

「白詛……ナノウィルス……坂田銀時!?」

 その辺りに散らばっている書類を適当に掴むも、どれもこれも銀時に関するものであった。目新しい情報こそなかったが、神楽は心臓をバクバクと言わせていた。

「なんで、こいつ……」

 土方はとっくの昔に警察を辞めているにも拘らず、今もまだ銀時の件に関して独自に捜査しているようであった。それが何を示しているのかは明白だ。土方もまた銀時の生存を信じている人間であったのだ。神楽は拾った紙を適当に揃えると、見えている横顔を上から覗き込んだ。

「……ありがとう」

 小さな声で言ったのだが、土方の目が薄っすらと開かれた。そして体を起こすとその鋭い目に神楽が映った。

「あ? テメェは……そうか」

 土方は何やら独り言を呟くと、目蓋を擦った。そうして文机に手をつき立ち上がると、着ているベストを脱いだのだった。

「で、今夜はどうすんだ? あんな荷物提げてるとこ見りゃ……俺は風呂に入るが、寝るならそこから適当に布団を持っていけ」

 神楽は腕を組むと、土方を静かに見つめた。

「心配は要らねェつってんだろ。俺は風呂上がったら集会所まで出る用がある。ここはテメェが好きに使え」

 そんなつもりで見つめたわけではなかったのだが、神楽はその好意を素直に受け入れる事にした。片意地を張る事に少し疲れたのだ。神楽は俯くと何か言葉を紡ごうとして、だが色んな感情が絡まり上手く言葉が出なかった。

「あ、うっ……あの」

 代わりに何か適当な言葉でやり過ごそうと思ったが、その機会すら失ってしまったのだ。突然、撫でられた頭。大きな手が神楽の湿った髪を乱す。そんな行為に神楽は目を大きく見開くと、胸が詰まるような苦しみに息が出来なくなった。

「何も言うな。今夜はもう寝ろ」

 土方は乱暴に神楽の頭を撫で付けると、一方的に喋って風呂へと行ってしまった。神楽は頭をようやく上げるもそこには誰の姿もなく、ただぼんやりとした灯りがあるのみであった。まだ心臓が震えている。神楽は胸に手をあてると、激しく脈打つ心臓を軽く摩った。

「……違う。銀ちゃんじゃない。違うから」

 勘違いをする体に神楽は必死に言い聞かせていた。今のは銀時ではないんだと。いや、そんな事は分かっていた。なのに動悸は収まらず、まるで神楽を突き動かさんばかりに激しく跳ねる。

“どこにも行かないで”

 そんな声が聞こえた気がした。今夜は一人になりたくないと、子供のようにワガママを言いたくなった。神楽はあり得ないと頭を振るも、足元に落ちている毛布に手を伸ばした。まだ温かい。遠い昔にいなくなってしまった銀時とは違い、土方の温もりは確かに神楽に伝わり、その身を安心させるのだ。久々に触れた人の温かさに神楽は胸を焦がしていた。それは優しくされたからなのか、相手があの男だからなのかそれは分からなかったが、間違いなく分かるのは土方に感謝していると言うことだった。

――――礼くらいはちゃんと言わなきゃ。

 神楽は土方が風呂から上がるまでは起きていようと、毛布に包まり部屋で待ったのだった。しかし、いつまで経っても土方は戻らない。いや、実際にはまた15分くらいしか時間は進んでいないのだが、神楽には非常に長く思えたのだった。

「一体、いつになったら上がって来るのよ」

 神楽はウトウトとしながらも土方を待っていた。しかし、いつまで経っても部屋へ戻らない土方に、神楽の眠気はピークを迎えた。さすがに今日は疲れていた。一日にたくさんの事を詰め込み過ぎたのだ。もう限界。神楽は瞳を閉じると畳の上に崩れるように倒れこんだ。そして寝息を立てると、ものの数秒で眠りに落ちたのだった。

 

 温かい体を包む熱と独特の甘い香り。それがどこか懐かしく、しかし初めてのような気もしていた。せめて夢の中だけでも――――――お願い。神楽は幻でも構わないから銀時に会いたいと願っていた。

「銀ちゃん」

 何だよ、なんて言いながらふらっと急に戻って来て、神楽の頭を撫でつける。そんな夢を見てみたいのだ。すると、その望みが叶ったのか、神楽の名前を呼ぶ声が聞こえた。

「神楽」

 神楽は嬉しくなり、声の聞こえる方へ手を伸ばすと抱きついた。そしてもう二度と離すもんかと必死に掴んだ。

――――ねぇ、銀ちゃん。万事屋、バラバラになっちゃいそうだよ。ごめんね。新八も私も頑張ったんだけど……

 実際に言葉には出来なかったが、神楽は白く光る夢の中の銀時にゆっくりと伝えていた。銀時は何も言わずに神楽の頭を撫で続け、神楽も銀時を掴んだままその胸に頬を寄せた。本当に銀時がそこに居るような夢を見て、神楽はこのままずっと覚めなければ良いのになんて思っていた。だが、実際にその頬を寄せている胸は銀時のものではなく、風呂上がりに部屋へと戻って来た土方のものだった。土方は自分の部屋で毛布に包まり眠っている神楽を見つけると、抱きかかえて客間に敷いた布団へと寝かせたのだった。

「誰が銀ちゃんだ……」

 土方は不満そうに呟いたが、眠っている神楽の頭を撫でてやった。銀時のフリをして。そのお陰か、何も知らない神楽の心は穏やかになり、久々に何の感情にも邪魔されず朝を迎えるのだった。

 

 

 客間と縁側を塞ぐ障子が開けられた。朝の光が部屋に降り注ぐ。

「土方さん、こりゃどーいう事でィ?」

 縁側から部屋を覗いているのは、かつての真選組一番隊隊長、沖田総悟であった。今は土方と別の道を歩み、流浪人として一人行動していた。とは言え、かつての局長である近藤を慕っている事もあり、こうして家を行き来していたのだ。神楽の隣で眠っていた土方は目を覚ますと沖田を見上げ、眩しそうに目を細めた。

「見りゃ分かんだろ。泊めた」

 沖田は部屋へ足を踏み入れると、まだ眠っている神楽の顔を覗き込んだ。

「随分と呑気な寝顔じゃねーか」

「構うな。寝かせておけ」

 土方は体を起こすと客間を出て、洗面所の方へ向かったのだった。