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5.忘却

 

私が神威と……兄ちゃんとまだ一つ屋根の下で暮らしていた頃、私はよく兄ちゃんと一緒にお風呂に入った。

パピーはなかなか家に帰らないし、マミーも体が弱くいつもお布団の中だった。

だから、兄ちゃんはいつも一人で歳の離れた私の面倒をみてくれていた。

 

一見、すごく良い話ネ。

だけど、違う。

光が強く当たれば当たるほど、深く暗い影が出来上がる。

神威の心は一人で頑張れば頑張るほど蝕まれていった。

きっとそうアル。

私はこの事が、神威を血みどろの人生に引き入れる原因になったような気がしていた。

私が兄ちゃんにワガママを言ったり疲れさせてしまったから。

だから、きっと嫌気がさしてしまったんだ。

結果、兄ちゃんは一人じゃ何も出来ない弱い私を置いて出て行った。

 

そんな思いがあの日からずっと私の胸の中にあった。

原因を作ったのは他でもなくこの私だと。

罪滅ぼしとは思ってない。

それにあの後の人生を歩いたのは、飽くまでも神威の意志アル。

だから、ただ単に私はあの頃のお返しがしたかったんだ。

それが背中を流すことならば、今の私にも出来るから。

だから、私は神威のその願いを素直に聞き入れた。

 

腰にタオルを掛けただけの神威はイスに腰掛け、その背中を私に見せていた。

どれくらい振りかな?

兄ちゃんの背中をこうして流すなんて。

 

「懐かしい気がするな」

「嘘っ!?」

 

神威は軽く笑うと嘘だと言った。

びっくりした。

何かを思い出したのかと思った。

だけど、私は次の神威の一言にこう思ったことを強く反省した。

 

「何一つ思い出せないよ」

 

笑い声で言ったその言葉は、この世のどんなものよりも痛くて悲しかった。

そうアルナ。

神威は思い出せない事をとても辛く思ってるのに……私は最低アル。

 

見ている神威の背中の皮膚は薄く、青い血管が透き通って見えていた。

その姿のように、神威もとても脆く儚い存在に思えた。

なんかすごく不安ネ。

神威がまた急に居なくなったりしそうで、私の胸の奥は苦しくなった。

 

「俺はどんなやつだった?良い奴かい?それとも悪い奴?」

 

その質問に私は何も答えられなかった。

ただ静かに神威の背中に泡を塗りつけた。

だけど、神威は懲りずに質問してくる。

 

俺は何が好きだった?

俺は何に興味があった?

俺は何を大事にしてた?

俺は誰か愛してた?

 

神威が私に尋ねた事は、私がまんま神威に尋ねたかったこと。

何が好きで、何に興味があって、何が大事で、誰を愛していたか。

だから、私は何一つ答えられなかった。

だって神威の事なんて全然わかんないアル。

私と同じ血が流れていること、ただそれしか私は神威と言う男の事を知らなかった。

それって他人と変わらないアル。

銀ちゃんや新八とは血なんて繋がってないのに、尻の穴まで丸見えで“他人”なんて到底思えない関係なのに。

 

神威は記憶を取り戻したがっている。

そんなの当たり前アルナ。

私が知ってる神威。

それはほんの少しかもしれないけど、ありったけを教えてあげたいと思った。

だって見えている背中は全然強そうなんかじゃない。

怖くて淋しくて苦しくて、今にも崩れてしまいそうな危なげなガラス細工に見えた。

 

私は既に黙ってしまった神威の背中にお湯を掛けた。

泡が肌の上を滑り、水に薄められ消えていく。

泡沫。

神威も私も夜兎なんて戦闘部族に生まれたのに、こんなにも脆いんだ。

私は目の前の神威の背中にそっと頬を寄せてみた。

……なんだ、温かいじゃん。

ちゃんと血、通ってるアル。

たったそれだけの事なのに、私の心は安心した。

 

「神楽、お前は俺の妹だろ?」

 

私は小さく返事をした。

 

「だから、お前は俺を恐れないのか?」

 

きっと神威には伝わってしまってるんだろう。

銀ちゃんと新八の緊張が。

神威は確かに危険人物アル。

だけど、私は神威の優しさもいっぱい知ってる。

恐いなんて気持ちよりも、ずっとずっと出会えた喜びの方が勝っていた。

 

「オマエの何を恐れるアルカ?神楽様には怖いものなんてないアル」

「なんでお前だけは俺を恐れないの?」

 

そう言われても恐れる理由なんて少しもない。

だって今の神威は昔と変わらない私の大好きな兄ちゃんアル。

なんで恐れなきゃならないアルカ?

 

「まるで怖がって欲しいみたいな言い方アルナ」

「……そうだ。俺はお前が怖がって、それで俺から離れれば良いと思ってる」

 

何言ってるの?冗談でしょ?

だけど、神威は笑っていなかった。

声は真面目で、表情は見えないけどきっと真顔で言ったはず。

胸の奥が途端に冷たくなる。

触れている神威の体が本当にガラスで出来ているように思えた。

私、嫌われてるの?

やっぱり兄ちゃんの心の闇を作ったのが私だから?

神威はそんな私の心中を察したように、今度は少し柔らかい口調で話した。

 

「今の俺には神楽しかいないだろ?だから」

「だったら余計に私は神威を怖がっちゃいけないアル。それに私……お前を独りぼっちにさせたくないアル!」

「その優しさが俺は嫌いなんだよ」

 

神威は不意に体ごとこちらへ向けた。

かと思ったら私の体にしがみつき、首元に顔を埋めた。

 

「か、神威ッ!」

「なんで俺を助けたりしたの?」

 

その言葉が左耳から入り、脳へ伝達されると私の体はガタガタと震えだした。

まるで助けられなければ良かった。

神威はそう言っているようだった。

 

「な、なんでって。そんなの」

「お前に助けられた事がどんなに今俺を苦しめてるか。お前は分かってない。ただの阿呆だ」

 

神威は私の頭を押さえると更にきつく抱き締めた。

神威の体の滴が私の服へ全部吸い寄せられてく。

驚きとよく分からない感情が私の鼓動を加速させる。

顔が熱い。

こんなのおかしいアル。

 

「ちょっと!神威ッ」

「お前にとって俺は兄貴なんだろ。でも、考えてみろよ。俺はお前のことを覚えてない。そんな俺にとってのお前は“神楽”って名前のただの親切な女でしかないんだから」

 

何も言えなかった。

まさか神威に、兄ちゃんにそんなことを言われるとは思ってもみなかった。

益々、顔が熱くなる。

じゃあ、今こうして私を抱き締めている神威は――

 

「待ってヨ!ほら、顔だってこんなに似て……」

 

神威は私の顎を掴むと、今まで見たことのない目の色になった。

待って待って待って待って!

 

「兄ちゃんッ!」

 

神威の動きがピタリと止まった。

私は涙を浮かべていて、神威に掴まれている顎がカタカタと震えていた。

ううん、顎だけじゃない体全身が震えていた。

 

「分かったかい。俺はもうお前の兄貴じゃない。お前を神楽を――」

 

突然、背後でバンバンと戸を叩く音と銀ちゃんの声がして、私は急いで神威から体を離そうとした。

だけど、神威は離してくれない。

それどころか私の唇を奪おうとした。

それは絶対にだめアル!

 

「銀ちゃんッ」

 

無意識にその名前を呼ぶと、背後の戸が勢いよく開いた。

床に転けて尻餅をついた私とそれに被さる神威。

2人して銀ちゃんを見上げれば、苛立ち気味の目が私達を見下ろしていた。

 

「よぉ兄ちゃん。妹相手に何してんだコラ」

「嫌だなぁ。勘違いしないでよお侍さん。石鹸で滑っただけだって、ねぇ神楽」

 

そのあまりの変わりように私は何も答える事ができなかった。

その後、銀ちゃんに救出された私は、さっき風呂場で神威と話した事を銀ちゃんに話すべきかどうか悩んでいた。

神威が私の事を……やっぱりこんなこと言えないアル。

その代わり、私はソファーで隣に座る銀ちゃんにしがみついた。

こうするとスゴく安心できるアル。

これを慣れた風景だと特に気にしてる様子もない新八は、向かい側で優雅にお茶をすすっていた。

やっぱりこの空間が一番いい。

 

まだ風呂から上がらない神威に今は心も落ち着いてるけれど、これからどんな顔で付き合えばいいか分からなかった。

兄ちゃんを嫌いになんてなれないけど、だけどあんな事されて平気ではいられない。

抱き締めただけじゃなくキスまでしようと……

やっぱりだめネ。

考え出すと一気に不安で押し潰されそうになる。

耐えられなくなった私は銀ちゃんの顔を手で無理矢理こちらふへ向けた。

 

「銀ちゃん、チュウしてヨ!」

 

それを向かい側で聞いていた新八は飲んでたお茶を噴き出すと、咳き込み一人で慌てていた。

だけど、銀ちゃんは違った。

先ほどからの私の異変に気付いてるらしく、大して驚きもしなかった。

 

「俺は良いけど、新八がなぁ」

「新八!お前ちょっとどっか行けヨ!」

「はぁああ?おまえら2人とも天に召されろ!腹立つわ!」

 

そう言いながらも新八は廊下に移動してくれた。

きっと本当は新八も何かに気付いてるんだ。

 

「で、何があったよ」

 

その独特の低い声に私は緊張がとけたのか、鼻の奥がツンと痛くなり始めた。

泣いたって何も解決しないのに。

それでも銀ちゃんは何も言わずに私の頭を優しく撫でてくれた。

何だか本当の兄ちゃんみたい。

だけど、銀ちゃんは私の兄貴じゃないから、だから私は堂々と銀ちゃんの唇に自分のそれを引っ付けた。

温かい。すごく元気が出るネ。

ゆっくりと唇を離せば、目と目が合った。

 

「何ともねーよ。俺が護るから」

 

こんなに心強い言葉を私は他に知らない。

難しい問題だし、ワケわかんないけど、私は銀ちゃんがいれば大丈夫だと確信した。

 

「ありがとナ、銀ちゃん」

 

もう一度だけ私達は引っ付くと、あんまり待たせては悪いと新八の名前を呼んで部屋へと戻してあげた。

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