05:陰と陽
その晩、なかなか俺は寝付けなかった。
さすがに夕方までだらけてたんだ、眠くもない。だけど、理由がそれだけじゃねぇことは分かっていた。
チャイナがまんまと俺に流されて、予想していた結果になった。その興奮がまだ冷めやらぬ。
人間の弱さや脆さ。それが見事に剥き出され、チャイナはいつの間にか、この俺に溺れた。信じられねぇが、本人が言うならそうなんだろう。
実際に惚れられてるかどうかは分からなかったが、チャイナは新しい世界へ足を踏み出すつもりなんだろう。現状を変えたいと、もう辛いなんて言わなくていい恋から逃げる為に――
そう仕向けたのは間違いなく俺なのに、チャイナとどうにかなるなんて俺が一番信じられないでいた。
「アイツは旦那を諦めてなんかねぇ、そんな簡単に……」
だいたい俺のどこに惹かれた? 俺の何を知ってる?
旦那と違って俺なら、アイツに辛いなんて言わせないんだろうか。
分かんねぇや……だから、たぶんきっとフリだ。ああやって、自分に言い聞かせて旦那を諦めるフリをしてんだ。 なぁ、そうだろィ?
チャイナは全て打ち明けて旦那と愛し合ってりゃ良いんだ。貧乏人同士で似合いだろ。あの狭い万事屋でちちくり合ってろよ。
今回の事は俺には……丁度良い暇潰しだった。明日、チャイナに俺の知ってる事を全てぶちまけてやろう。それで全て終わりにしてやる。
そんな事を考えてる内に俺はいつの間にか眠りに落ちていた。そして、またチャイナの夢を見た。
ガラスの板はまだそこにあって、チャイナと俺を隔てていた。俺の右手にはどっしりと重い金槌があり、今夜も役割を果たす機会はなさそうだった。
ガラス越しのチャイナはまるでガラスケースに容れられた人形の様に白く、生気が感じられなかった。それは俺がチャイナを知らないからそう思うのか。
ガラスの先のその白い指はどれくらい温かい?それを確かめるには、このガラスを砕き割る必要があった。それでも俺は躊躇う。迷う。
そうこうしていると、いつの間にかチャイナの隣に旦那が立っていた。そして、俺がガラス越しに触れたその指は呆気なく旦那のものと絡まって、俺の夢の中ではあるがチャイナと旦那の望み通りになった。
良かったじゃねぇか。
俺が触れたつもりでいたその冷たい指も手も唇も、旦那だけがその温度を知り、旦那だけのものになった。
なら、この金槌はもういらねぇな。
俺がガラスを破り、チャイナの側へ行く必要もなくなった。
捨ててやる。
だが、次の瞬間俺は金槌を高く振り上げ、ガラス板は派手に粉砕した。
「やっちまった」
そこで目が覚めた。
まだガラスが砕け散るデカイ音と、振り下ろした重てぇ金槌の感触が残ってる。
夢だったんだろィ?
枕元の時計を見れば、もうすっかり朝で、どうも眠った気がしなかった。
「俺は何して……」
布団の上で体を起こせば、今日チャイナと会う予定だった事を思い出した。
洗面を済ませ、着替えて朝食をとれば、いつでも準備は出来ていた。
だが、チャイナが来る確証はねぇ。それは困った。何故なら俺はすっかり来て欲しいなんて思ってたからだ。旦那には悪いが、俺はもうダメらしい。他の野郎に奪られたくねぇや。
いつの間にか俺の方が、チャイナを放っておけなくなっていた。
その後、チャイナは昼過ぎに予定通り俺を訪ねて屯所へ来た。
暇をもて余した隊士共が、訪ねてきたチャイナを遠巻きに眺めていて、その無様なナリに呆れた俺は奴ら全員をバズーカで追い払った。
それをチャイナは特に何と言うことなく見ていて、改めてイイ女の定義を考えた。
俺のやる事に“幻滅”なんて言葉を使わず、肩を並べられる女がきっと俺の中のイイ女だ。
「まぁ、座れ」
俺の部屋に着くと、チャイナはその言葉通りに座布団の上に正座をした。そして、短いスカートの裾をやや気にして引っ張った。
誰が見るかよ。
そう言ってやろうと思ったが、今日はそんな雰囲気でもないかと珍しく口をつぐんだ。
何から話すか。
そんな事を考えながら、俺はチャイナから少し離れた位置に腰を下ろした。
「……チャッ」
「私、本気アル」
また話すタイミングが被った。俺は身を乗り出したチャイナに話を譲った。
すると、チャイナは顔を僅かに赤く染めながら落ち着きなく話した。
「だから、毎日オマエに会えば変われるかもって期待して……なのにオマエ居ないし」
「仕方ねぇだろィ。俺もたまには仕事に精を出しまさァ」
何だよこの会話。
どこか照れ臭く感じた。
「一日、二日なら良いアル。我慢も出来たし、こんな事にもならなかったネ。だけど、それが一ヶ月ネ。オマエにこの気持ち分かるアルカ?」
チャイナは自分の胸の辺りをグッと掴むと俯いた。垂れ下がった前髪の隙間から僅かに覗く瞳は、すっかり溺れてる女のソレだった。そんな姿に俺も浮かされたらしく、心臓がざわついて――ヤバい。
「今日会えたんだから良かっただろィ」
目の前で苦しそうに俯いてる姿は俺以上に辛そうで、旦那のことから解放されたってのに笑顔が見れなかった。これは俺のせいなのか。
「初めはなんか義務感だけだったアル。だけど、どれだけ通っても会えなくて。それで段々意地になってきて、気付いたらオマエに会いたくて堪らなくて……」
「そうかィ」
「オマエなんて絶対にないって思ってたのに」
そう思う気持ちは分からなくなかった。俺もただの暇潰しでしかなかったから。まさかチャイナに心臓が奪われるなんて思いもしなかった。
いや、違う。
「俺はテメーが泣きっ面見せた瞬間から――」
そうだ。あの日から、チャイナが俺に弱音を吐いたあの日から、俺はコイツの事が気になって仕方がなかった。関係ないなんて予防線を張って、チャイナにのめり込まないようにブレーキ掛けて。
「……一ヶ月、長かったアル」
チャイナはまた座布団の上にきちんと座り直すと、唇を尖らせて言った。その姿があんまりにも眩しすぎて、俺は直視できなかった。
チャイナから視線を逸らせると、俺は膝の上で拳を握りしめた。一ヶ月間、惚れた女が俺を想って待ってたんだ。何か気の利いた台詞を……そうは思っても、悪い癖か俺の中のサディズムが目を覚ます。
「なら、褒美をやらねーとな」
「は? え? 何かくれるアルカ?」
どS心に火がついた俺はそれまでの照れが一切なくなると、チャイナに迫り小さな顎を掴んだ。
「なっ! 何してるネ!」
「テメーが欲しがってんだろィ? 俺の唇を。ほら、やるよ。自分からキスしてみろよ」
チャイナは次の瞬間、俺の顔を両手で激しく叩いた。
いてーな。何が不満なんだよ。
「セクハラ! 何アルカそれ! だ、誰がキスなんてッ」
俺は喚くチャイナの腕を掴むと、そのままグッと引き寄せた。
チャイナはそれにバランスを崩すと、キレイに俺の胸へと収まった。そして、俺は体の赴くまま、意外に華奢なその体を抱き締めた。
「したくねーのかよ。俺は……」
したい。ガラス越しじゃねぇんだ。生身のチャイナがここに居るんだ。その熱を俺は知りたい。どれくらい甘いのか知りたい。何よりチャイナ、てめぇの事を俺は知りたい。
「いっ! オ、オイ!」
「もう、喋んな」
あと僅かで唇が触れ合いそうな距離。チャイナは降参したのか素直に口を閉ざして、そして俺は全てを知った。
重なった唇は37度くらいだとか、チャイナからいい匂いがするだとか、想像よりも苦しいだとか。
いつの間にかチャイナの手が俺の着物を掴んでいて、その手からも熱が伝わってきた。
クラクラする。
その辺りから、俺はすっかりチャイナのペースに飲まれてる事に気が付いた。このままじゃ、押し倒されそ……いや、今倒された。
チャイナは俺の上で腹這いになると、ただ唇に夢中だった。
だが、この体勢は良くねぇや。あんまりやるな! カラダを押しつけんな!
そう思いはするが、俺も実際は嫌なわけじゃねぇ。むしろ、歓迎している。バカみたいに悦んで。
その後もチャイナは俺から降りることなく、1ヶ月分の想いが爆発したかのように、キスの雨を降らせ続けた。でも、さすがに俺もされっぱなしじゃいられねぇ。
俺はチャイナの体をムリヤリに引き剥がした。
「これ以上やるってんなら、テメーの◯◯に俺の◯◯◯を突っ込んで、◯◯◯してやりたく……」
「やってみろヨ」
チャイナは俺を見下ろしながら不敵な笑みを浮かべた。
コイツ、マジだ!
「なんて顔してるアル? 怖じ気づいたアルカ? これだからガキ相手の恋愛は疲れるネ」
チャイナは俺の腹の上で跨がったまま肩をすくめた。
偉そうに言いやがって。
「ププッ」
チャイナは突然、俺の顔を見て吹き出した。頬を赤く染めて、肩を震わせて。
「なんか、おかしーネ。なんで私、オマエとこうしてるだけで楽しいアルカ?」
聞いてるこっちが恥ずかしくなるような言葉を、チャイナは臆する事なく言ってのける。
顔が熱い。耳まで熱い。
俺は笑顔を見せるチャイナにまんまと魅せられた。眩しいくらいの笑顔を振り撒くチャイナに、俺の心臓はさっきからずっと忙しい。
好きだ。
月並みな言葉だが、チャイナを心の底から好きだと思った。
「ようやく笑ったな」
そう言った俺も白い歯を溢していた。
そこでようやく気付いた。あの日から、俺はただチャイナの笑ってる顔が見たかったんだ。
“たかが”それだけの事。
言葉にすればたかがそれだけの事だが、他の誰でもなくこの俺がチャイナの笑顔を引き出した事に大きな意味があった。
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