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2.気化熱

 

 翌日、神楽は浮かない顔で真選組屯所の門の前に立っていた。手には書店の紙袋と少し泥が落ちた写真集。神楽は門番の男に沖田への届け物があると言うと、ズカズカと敷地内へと入って行った。

 

「沖田隊長なら、縁側で昼寝してますけど」

 

 その辺りに居た隊士に言われた通りに進めば、案の定仕事をサボって寝ている沖田の姿があった。いつもの変なアイマスク着けており、音楽でも聴いているのか、耳からはイヤホンのコードが伸びていた。

 隙あり! そうやってニヤリと笑った神楽が沖田に飛び掛かるも、沖田は熟睡しているようで一向に起きなかった。

 よく晴れた昼下がり。遠くの方で隊士達の談笑する声が聞こえるも、沖田と神楽の周りは静かなものだった。

 

「起きろヨ」

 

 神楽は沖田の腹の上に乗ったまま見えてる鼻を摘まむと、少しむず痒くなった。何だがこれでは、自分が大人しく眠っている沖田に、ちょっかいを掛けてるみたいだと急に恥ずかしくなった。全然そんな事はないのだ。神楽は沖田の腹の上から急いで下りようとした。しかし、伸びて来た手に太ももを掴まれ、それは叶わなかった。

 

「夜這いどころか昼這いかよ。白昼堂々と……テメーは恥を知れ」

 

 アイマスクを着けたまま沖田がそう言うと、神楽は目覚めの一撃を右頬にお見舞いしたのだった。

 

「あほアルカッ!? 誰がオマエみたいな男襲うネ!」

 

 神楽は沖田から飛び下りると、背を向けて縁側に腰掛けた。そして、アイマスクを外し、体を起こした沖田に持って来た紙袋を投げつけた。

 

「なんでィ、こらァ?」

「オマエが頼んだんダロ!」

 

 沖田は投げつけられた紙袋から本を一冊取り出すと、表紙に書かれている文字に首を傾げた。

 

「M&A」

 

 神楽の持って来た本は、どこからどう見ても沖田には関係のないビジネス書であった。

 

「お前、俺に買収でもさせる気か? Mの文字しか合ってねぇだろィ。俺が頼んだのはMっ娘倶楽部だって言ってんだろィ」

「なぁ、オマエ。インターネット出来るアルカ?」

 

 沖田は神楽の言葉に顔を引きつらせた。そんな沖田の顔には"こいつ、そのめでたい頭で企業買収を目論んでやがる"と書いてあった。

 

「マジか? やめとけ。てめぇなんか騙されるに決まってんだろィ。俺も公務員の端くれだ。そんな危ねぇ橋を渡るかよ」

 

 神楽はおかしな事を話す沖田を変な顔で見ると、オマエの考えてるような事じゃないと、キッパリと言い放った。そして、沖田の隊服のポケットに手を突っ込むと、勝手に探り携帯電話を取り出した。

 

「昨日の写真集、あれからどこ探しても売ってなかったアル。だけど、本屋のオッさんに聞いた話だと、インターネットならまだ在庫あるかもって」

 

 沖田は神楽から携帯電話を取り上げると、いつも利用しているネットショップへとアクセスした。

 

「…………全滅でィ」

「なんでアルカ! そんなに人気ネ?」

「いや、あることはあるが、どれも予約商品で発送は年明けらしい」

 

 神楽はガクリと肩を落とすと、手元に置いてある汚れた写真集を見つめた。

 弁償が出来ないとなると、一体どうすればいいのか。神楽の頭の中は、写真集の事で溢れていた。そして、それとは別にもう一つ気になっている事があった。それは返却期限の事だ。

 12月24日――もしかすると、この写真集は誰かへの贈り物だったのだろうか。そんな考えが頭に過った。

 神楽は早い内に本郷へ、この事を話さなければならないと思っていた。代金を弁償して謝れば許してもらえるだろうか? いや、誰かへの贈り物ならば、そんな事で許される筈がない。嫌われてしまう? 神楽は不安になった。

 

「私、この事を友達に話してくるアル」

 

 そう言って青い顔で立ち上がった神楽の服を、沖田は咄嗟に引っ張った。

 

「待て。もう少しネットで探してやらァ」

 

 珍しく協力的な沖田を、神楽は真っ赤な顔で見下ろしていた。それもその筈で、沖田が掴んでいるのは、神楽の短いチャイナドレスの裾だった。沖田は軽く引っ張ったつもりのようだが、ミニ丈のスカートは、その下の淡いピンクの下着を覗かせた。

 

「オマエは私を何だと思ってるネッッ!」

 

 神楽は沖田の顔面目掛けて蹴りを入れると、真選組一、二を争う色男はゴロゴロと後ろへ転がって行った。

 

「ただの布切れぐらいで何でィ」

 

 そうやって空を仰いでる沖田を、たまたま通りかかった土方が覗き込んだ。

 

「総悟、お前鼻血出てんぞ」

 

 沖田はそっと自分の鼻に手をやると折れていないか確認した。

 

 

 

 神楽は一軒の民家の前で立ち止まっていた。この辺りでは、割と大きな造りの建物で、見えている庭もきれいに手入れされていた。

 神楽はその家のインターホンに指をかけるも、なかなか押せないていた。インターホン横に掛かる表札には、本郷の文字。それが神楽を躊躇わせる大きな原因となっていた。

 

「約束したのに! 酷いよ!」

 

 突然、家の中から大きな叫び声が聞こえてきた。その声は女の子のもので、怒りと悲しみが入り混じったような複雑なものを感じた。

 

「どうして私より先に、他の子に貸しちゃったの!?」

 

 激しく責め立てるような声。続いてその女の子をなだめるように、柔らかく落ち着いた男の子の声が聞こえてきた。

 

「貸す約束はしたけれど、一番最初にとは言っていないだろ?」

「だ、だって、いつも私が一番だったじゃない!」

 

 神楽は聞こえてきた会話の内容から、何の話を2人がしているのか分かっていた。

 この写真集のことだろう。神楽は持っている泥まみれの写真集に目を落とすと、より一層険しい表情になった。

 

 薄々、勘付いていたが、この本を楽しみにしている人がいたのだ。自分は本郷だけでなく、その人の楽しみまで奪ってしまった。

 神楽は何をしても許されない雰囲気を感じた。

 

「……でも、ちゃんと言わなきゃ駄目アル」

 

 神楽はそれまで俯いていた顔を上げると、意を決してインターホンを――その時、家の中から慌ただしく誰かが飛びたして来た。

 歳は神楽より少し下に見え、お下げ髪の綺麗な顔立ちの女の子であった。

 

「誰?」

 

 その子は、神楽を泣き腫らした赤い目で見つめた。

 

「わっ、私は」

 

 神楽は言葉に詰まると、写真集を持つ手に力が入った。

 何から話そう。謝罪の言葉を述べようと思うのに、神楽の口はカラカラに渇き声が出なかった。

 そうこうしている内に女の子の後を追って、本郷がその場に現れた。

 

「あっ、神楽ちゃん?」

「……知り合いなの?」

 

 神楽の名を呼んだ本郷に女の子は怪訝な顔つきになると、キツイ表情で神楽を睨んだ。

 それには、神楽の顔も強張ると、瞬きすら出来なかった。

 不穏な空気。そんな2人の間に本郷は割って入ると、柔らかい表情で神楽に尋ねたのだった。

 

「神楽ちゃん、もしかして写真集を……」

 

 2人の視線が神楽の抱えている写真集に集まった。すると、女の子はヒステリックに悲鳴を上げたのだった。

 

「この人に貸したのねッッ!」

 

 神楽はその声に驚くと深々と頭を下げ、大きな声で謝った。

 

「ごめんなさいアル!」

 

 だがしかし、写真集を抱えたまま走り出してしまった。

 

「神楽ちゃん!」

 

 背中に掛けれた声を振り切り神楽は走った。

 情けない。そんな思いからなのか、涙が溢れて来る。

 こんなもの、謝罪でもなんでもない。不誠実にも程が有る。

 結局その日、神楽は本郷に写真集の事を話すことは出来なかった。

 

 

 

 神楽は途方に暮れていた。

 

 あんなに楽しみにしている子の前で、このゴミとも思える写真集を出すことは出来なかった。その理由は分かっていた。非難されるのを何よりも恐れたのだ。だが、それ以上に分かっていたのは、このままではいけない事だった。

 早く伝えなきゃ。神楽は公園のベンチに座り、一人肩を落としていた。

 

「まだ、そのゴミ持ってんのかよ」

 

 鼻につく声がどこのどいつか、すっかり分かっていた神楽は、顔も上げずに地面に伸びる影をただ見ていた。

 

「ゴミになったのは、半分はオマエのせいダロ。どー落とし前つけてくれるネ」

 

 沖田はそれには何も答えず、神楽の事を黙って見下ろしていた。だが、いきなり神楽の手から、乾いた泥のついている写真集を取り上げたのだった。

 神楽は顔を上げると、元気のない深く青い瞳で沖田を見つめた。

 そんな神楽の顔に沖田は調子でも狂ったのか、首を軽く横に振った。

 

「よっぽど嫌われたくねーんだな」

「はぁ? そんなんじゃ……」

 

 だが、神楽は途中で言葉を切ると、そうに違いないと続きを口にはしなかった。

 本郷にも、あの子にも悪い奴だと嫌われたくない。だけど、ちゃんと謝れない自分は、もうすっかり悪い奴だと、胸がキリキリと痛んだ。

 

 沖田は先ほどから、まともに読むことの出来ない写真集を熱心に見ており、パラパラとページをめくりながら神楽に言った。

 

「週末、空けとけ」

 

 神楽はそれまで力なく沖田を見ていたが、眉間にシワん寄せると鋭い目付きで沖田を見つめたのだった。

 

「デート? オマエ、私をそんな目で見てたアルカ!」

 

 沖田は写真集を小脇に抱えると、神楽に背を向けた。

 

「どうせゴミだろィ? 代わりに捨ててやらァ」

 

 そう言うと、沖田は他に何の説明もなく公園から出て行ってしまった。

 神楽は沖田が何を企んでいるのかと、その背中を睨み付けた。

 一体、何を考えているのか。神楽は沖田を変わった男だと、首を傾げて見送っていた。

 

 その夜、神楽はなかなか眠りに就けずに、狭い押入れの中でぼんやりと考え事をしていた。

 それは、写真集の事が気掛かりだと言うこともあるが、今は沖田の事が考えのほとんどを占めていた。

 確信など全くなかったが、汚れた写真集を持って行った沖田にどこか期待していた。

 何か考えがあってあんな事を? いや、ある筈がない。神楽はそんな事を思いながら、目を閉じたのだった。

 

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