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1.気化熱

 

 神楽は暮れ始める江戸の空に気が急くと、人で賑わう駅前通りを足早に歩いた。頬に当たる風は冷たく、こんな日はコタツに入って鍋でも食べたいなどと、夕食に思いを馳せていた。

 季節は冬。街並みはすっかりと赤と緑に染まっていて、クリスマスへのカウントダウンが始まっていた。

 

「クリスマスかぁ」

 

 神楽は綺麗に飾られたショーウィンドウの前で足を止めた。それは小さな雑貨屋のものらしく、ガラスの向こうには如何にもクリスマスらしい小物が飾られていた。神楽はそれらを見て軽く微笑むも、目の焦点はガラスに映り込む自分の姿に合ったのだった。

 スラリと伸びた背丈に、長い髪。どことなく亡き母の面影を感じる。

 

「サンタさん、懐かしいアルナ」

 

 既にサンタクロースの秘密を知っている神楽は、枕元にプレゼントが置かれていた日々を懐かしく思っていた。ほんの2年前のことだと言うのに。神楽が大人へと日に日に成長している証であった。

 

「あー、お腹空いたアル」

 

 神楽は腹の虫に催促されると、再び歩き出した。そして、また町行く人々の流れに乗って万事屋を目指したのだった。

 

「うおッッ!」

 

 本屋の前を通りかかった時だった。店から出て来た客とぶつかってしまい、神楽はドンと尻餅をついた。

 

「オマエ! 一体どこ見て歩いてるネ! こんな可愛い神楽ちゃんが、目に入らなかったアルカ!?」

 

 そう言って神楽はその人物を見上げるも、店の明かりのせいで逆光になった相手の顔を確認する事は出来なかった。

 

「……神楽ちゃん?」

 

 神楽は聞き覚えのある声に眉を寄せた。相手は男で、年齢は同じくらいの若い声だった。

 神楽は痛む尻を摩っていた手を休めると、はっきり見えない男の顔を見つめていた。

 

「誰アルカ?」

「やっぱり、神楽ちゃんだね!」

 

 男は神楽の腕を掴むと、引っ張って立ち上がらせた。強い力だ。立たされた神楽は勢い余って男の胸元へとよろけそうになると、そこでようやく男の姿をはっきり確認した。

 色素の薄い髪に大きな瞳。眉を隠す程の前髪は、その大きな瞳を更に強調していた。幼い顔付きに思えたが、それとは裏腹にその背丈はスラリと高く、神楽の腕を掴む手も大きなものだった。

 こんな男は知り合いにはいない筈。神楽は品の良い柔らかい笑顔をしている男に、もう一度尋ねてみた。

 

「オマエ、誰アルカ?」

 

 すると、男は神楽から手を離すと、丁寧なお辞儀をした。

 

「お久しぶりです。本郷尚です」

 

 その名を聞いた神楽は、大きく目を見開いた。

 本郷尚――神楽の中の彼のイメージは、病弱で自分より体も小さく、見た目だけなら逞しいという言葉とは程遠い少年だった。

 

「驚くのも無理ないか。あの夏以来だからね。最近は風邪の一つも引かなくなったんだ。それもこれも神楽ちゃんのお陰だって、ずっと感謝してるよ」

「お、おぅ! 良かったアルナ」

 

 照れ臭そうに微笑み合った2人は、並んでゆっくりと歩き出した。

 久々の再会だった。あの夏のラジオ体操以降、会う機会などなかなか無かったのだ。寺子屋に通い勉強をしている本郷と、万事屋で働いている神楽。2人は生活環境から何から何まで、全く違っていたのだった。

 会わなかった間にどんな風に過ごしていたのか、互いに話したい事がたくさんあるようで、会話はなかなか尽きなかった。

 

「神楽ちゃんは、ずっと万事屋で働いてるの?」

「そうアル。銀ちゃんと新八と何とかってるアル。尚はどうしてるネ?」

 

 本郷はあの後から寺子屋で勉学に励み、今は自分の師である先生のようになるのが夢だと語った。神楽はそれを頷きながら聞くと、すっかり身も心も逞しく、大人の男へ成長しているんだど感心していた。それに比べて自分はどうだろうか。

 銀時と新八と毎日ダラダラと楽しく過ごしているだけで、これと言って張り合いはなかった。ましてや勉強など以ての外である。

 

「オマエな凄いアルナ。私なんて難しい日本語はわかんねーし、女性誌で男を手玉にとる技くらいしか学んでないネ」

「そうかぁ……」

 

 本郷はそう呟くと、徐に小脇に抱えていた紙袋から一冊の本を取り出した。

 

「これなら神楽ちゃんも楽しめるんじゃないかな?」

 

 神楽は目の前に差し出された本に何かと首を傾げた。見れば綺麗な青空の写真が表紙になっているもので、神楽は思わず手に取った。

 

「これはね、世界各国の美しい景色が載っている写真集なんだ」

「きれーアル!」

「気に入った? なら、あげるよって言いたいところだけど……」

 

 本郷はあげる事は出来ないけれど、貸すことは出来ると神楽にその写真集を渡したのだった。神楽は借りられるだけで十分嬉しいと、早速立ち止まりパラパラとページをめくったのだった。

 そんな神楽を本郷はニコニコと笑顔で眺めており、神楽の表情も花が咲いたように明るかった。

 写真集なんてサンタフェくらいしか知らないけど。そんな余計な言葉を神楽は飲み込むと、写真集を胸に抱えた。

 

「ありがとう! いつまで借りてて良いアルカ?」

「そうだね。1ヶ月は大丈夫だよ。12月24日までならね」

「分かったネ! 読み終わったら、オマエん家に返しに行くアル!」

 

 そんな会話をしていると、丁度分かれ道に差し掛かった。神楽は本郷に礼を言うと別れを告げた。本郷も軽い会釈をすると、神楽の背中が見えなくなるまで見送っていた。

 

 本郷と別れた後、神楽は鼻唄を歌いながら、足取りも軽いものだった。

 久々の友との再会。それが非常に有意義なものになった事が、神楽の心を温かくしていた。

 早く家に帰って読もう。写真集を胸に抱える神楽は、小走りに万事屋を目指した。

 

「うおッ!」

 

 デジャヴだった。神楽はドンと後ろに尻餅をつくと、地面に座り込んだ。本日二度目の尻餅は、さすがに痛かった。怒鳴ってやろうか。そう思ったが、先程のことから学習してコチラにも多少非があったと相手を気遣った。

 

「大丈夫アルカ?」

 

 ぶつかった相手は立ち上がると、ズボンについた土を払っているようで怪我をしている様子はなかった。しかし、またしても逆光で相手の顔が見えない。でも、さすがにまた知り合いって事は――そう思ったのも束の間、よく聞き慣れた声が耳に入ってきた。

 

「くそチャイナ。てめぇ、目まで馬鹿になったのかよ」

 

 神楽のこめかみに青筋がくっきりと浮かび上がった。座り込んでいる女性にこんな言葉を吐くなんて、真選組の一番隊隊長である沖田総悟くらいしか思い当たらなかった。

 神楽は急いで立ち上がると、沖田目掛けて拳を繰り出した。しかし、それは軽くかわされてしまい頭に血が上った神楽は、今度は確実に胸倉を掴みに掛かった。

 

「馬鹿サド、オマエこそどこ見て歩いてんダヨ!」

「俺ァ、ケータイ画面しか見てねぇに決まってんだろィ」

「前見ろヨ!」

 

 腹が立った神楽は何度も沖田に拳を繰り出すも、どれもこれも空振りだった。それが余計に神楽を苛立たせた。同じ状況でも本郷はもっとずっと紳士な対応だった。それに比べて沖田は……神楽は大人の癖にロクでもないなどと思っていた。

 神楽は沖田に構うことをやめると、さっさと万事屋に帰ろうとした。だが、自分の手が空っぽだと言うことにようやく気が付いたのだった。

 

「ない、ないアル!」

 

 本郷から借りた写真集が見当たらなかったのだった。転んだ場所を見るもなく、道端にも落ちていなかった。

 

「どこに行ったアルカぁ!」

 

 悲鳴にも似た声で焦る神楽に、さすがの沖田も声を掛けた。

 

「何がねぇって?」

「写真集アル」

 

 沖田は持っていた懐中電灯で辺りを照らすと、嫌なものを見つけてしまった。神楽もそれに気付くと、沖田と顔を見合わせた。

 

「まさかネ」

「どーだか」

 

 2人の視線の先にあるのは、道の脇にある側溝だった。何やらドロドロと泥水が溜まっていた。神楽は恐る恐る手を突っ込むと、指に触れたものを一気に引き揚げた。

 

「最悪アル」

「ひでぇ……」

 

 さっきまで綺麗だと眺めていた表紙は泥まみれで、とても美しい空には見えなかった。中の方も見てみたが表紙と同様、酷く汚れてしまっていた。

 どうしよう。神楽は写真集を眺めながら悩んでいた。同じものを買って弁償しないと。しかし、その義務は目の前の男にもあるのではないかと思った。

 

「オイ、新しいもの買うから弁償しろヨ」

 

 神楽がそう言って片手の掌を上に向けて出すも、沖田のポケットから出て来たガムの包み紙を握らされるだけだった。

 

「何ダヨ、これ! そういうのはイイから金よこすアル」

「なら、額を地面に擦り付けてクダサイって言え」

 

 神楽は一瞬、本気でやろうかと悩んだが、頭を振ると冷静になった。

 

「誰がそんな事やるアルカ」

 

 だが、この写真集が一体どれくらいの値のするものか分からなかった。それに、給料の不払いのせいで、自分の財布の中身が寂しいことを把握している。それだけに、沖田にはどうしても、代金を支払ってもらわなければならなかった。

 

「この本は尚に……友達に借りたものアル。だから、私の為じゃなく友達の為に弁償して欲しいアル」

 

 珍しく素直になった神楽は小さくか細い声で言った。それを沖田は顔色一つ変えずに聞くと、財布から一万円札を取り出した。神楽の顔に明るさが戻った。

 

「オマエ、太っ腹アルナ!」

 

 そう言って神楽は沖田から一万円札を取ろうとしたが、沖田はその手を引っ込めてしまった。

 

「ついでに俺が毎月買ってるMっ娘倶楽部も一冊頼んだぜィ。あ、週刊SMマニアと間違えんなよ」

「キモいアル! そんなの買えるわけないダロ!」

「なら、やれねぇや。残念だったな」

 

 そう言って、財布へと一万円札をしまおうとしている沖田の手を、神楽は強く掴んだ。その顔には青筋がくっきりと浮かび上がってる。

 

「買って来れば良いんダロッ! 月刊どSバカッッ!」

 

 神楽は沖田から一万円札を奪い取ると、駅前通りの本屋へと急いだのだった。

 

「残念だけど、たった今最後の一冊が出ちまってねぇ」

 

 小さな本屋の亭主は、分厚いレンズの眼鏡を指で上げながら神楽にそう言った。店内を見渡せば、写真集が積まれていたところだけがポッカリと空いていて、この店ではもう手に入らないことが窺えた。

 

「そうアルカ。じゃあ、他の店回ってみるネ」

「でも、どうだろなぁ。最近じゃインターネットで買う客が増えたから、どこもそんなにたくさんは仕入れてないと思うがね」

 

 神楽は手にしている一万円札と、泥まみれの写真集を見つめた。まだ他にも本屋ならある。

 神楽はお腹が空いていたけれど、かぶき町の本屋を回ってみる事にした。

 

 

 

「ただいま」

 

 神楽が万事屋に帰ったのは、夜の9時を回っていた。しかし、」新八も銀時も遅かったなと声を掛けるだけだった。

 神楽は適当に返事をすると食事も取らずに風呂場へ向かうと、ドブ臭い写真集をどうにかしようとタオルで拭いたのだった。

 

「キレイになるわけないじゃん」

 

 神楽は諦めている気持ちと、どうにかキレイになって欲しい気持ちがせめぎ合っていた。だが、現状は少しも良くはならなかった。写真集は元の美しい写真を見せてはくれず、ふやけた茶色い染みがあちらこちらに滲んでいた。

 明日、江戸中の本屋を回ってみよう。神楽はそう決めると、晩御飯を食べに居間へと向かったのだった。

 

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