桃色傀儡


1,沖田side


 同じクラスの神楽とは、何かと喧嘩が絶えなかった。と言っても何かを争っていると言うよりは、軽くじゃれているようなもので、心底嫌っているわけではなかった。それは神楽もきっと同じはずだ。

「今日帰り乗せて行けヨ! どうせ暇ダロ?」

 こんなふうに自転車に乗せろと言ってくるのだ。やはり自惚れているわけではないと沖田は確信した。

「なら明日、売店で何か奢れよ」

 沖田がそう言うと神楽は『ケチ!』と唇を尖らせ脛を蹴った。これには沖田もやり返す。だが、血が出るほどの攻撃ではなく、飽くまでも遊びの一環といった所だ。時折、近くに居る関係のない桂小太郎辺りがとばっちりを受けるが、それでも子犬がじゃれあっているようなものであった。しかし、その子犬である神楽が唯一尻尾を振って飛びつく相手がいた。

「銀ちゃーん!」

 担任の坂田銀八だ。やる気のない表情と癖の強いボサッとした髪型。なぜかいつも白衣を着ており、顔にかかる華奢なフレームの眼鏡はどこか冷めて映った。

 沖田はそんな銀八に懐く神楽が少々不思議であった。何に惹かれているのか。ベタベタと腕をとって引っ付くのだから相当好きに思えたのだが――――――しかし、最近はめっきりとそんな姿を見なくなったのだ。神楽の定位置である銀八の隣には猿飛あやめが居て、神楽はと言えば…………

「なぁ、酢昆布食べるアルカ?」

 自分の隣に居るのだ。

 沖田は次の授業の準備をしながら、隣の席に座る神楽を目に映していた。

「そんな酸っぱいもん誰が食うか。それよりもテメー、次の授業は体育だろ? ここで着替えるつもりかよ」

 神楽は短くあっと言うと、急いで体操服を抱えて教室から飛び出した。そんな神楽の後ろ姿を見ながら沖田は妙なくすぐったさを覚えるも、表情にそれを出すことはなかった。

 いつから神楽の定位置が自分の隣になったのだろうか。それを考えるも、ごく自然とこうなっていた事実に沖田は変わっていく何かを感じていた。それは神楽自身もそうであるのだが、己の中に流れるもの……それについてどんなものよりも強く感じるのだった。


 今日の体育の授業は、グラウンドで100メートル走のタイムを測ると言ったものであった。既に計測を終えた沖田は、テニスコートに居る女子を…………いや、殆どの男子がテニスコートの女子に釘付けであった。

「ああ……お妙さん…………」

「ああ……たまさん…………」

 そんな声が聞こえたが、沖田はただ黙って跳ね回るウサギのような神楽を見ていた。だが、急に動くのをやめると体育教師に何かを言って木陰へと移動した。その意味を沖田は分からず見続けていると…………神楽の白い顔が更に色を失っていくように見えた。

 それはチャンスであり、隙であった。授業終わりにでも『情けねえな』なんて言って取っ組み合えば簡単に勝てるかもしれない……と、前までならばそんな事を考えただろうが、今は違うのだ。

 あいつ……体調悪いのか?

 気にかけるような表情で沖田が見ていると、ついに神楽は芝生の上に手をつき、肩で苦しそうに息をし始めたのだ。だが、その異変に周囲の者は誰も気付いていない。今、神楽を見ているのは自分だけであった。

「オイ、総悟。どこ行く?」

 次の瞬間には駈け出していて、土方の言葉も耳には入っていなかった。ただ神楽を目指して走ると、芝生の上に倒れている体を起こしに行った。

「しっかりしろ!」

「うっ……うう…………」

 華奢な体を抱きかかえてすぐに気が付いた。かなり熱く火照っていることに。今日は湿度が高く、気温も決して過ごしやすいものではない。沖田は急いで神楽を保健室へ連れて行くと、弱っている体をベッドへと寝かせるのだった。


 あいにく今日は養護教諭の月詠先生は出張でおらず、沖田は神楽をベッドへ寝かせると誰か女性教諭を呼んで来ようとした。

「ま、待て……ヨ…………」

 神楽の腕が伸びてきて、沖田の体操着を掴んだ。

「誰か呼んできてやるから、黙って寝てろ」

「タオル……冷たいタオル……ちょうだいネ……」

 沖田は室内を見回すと畳まれたタオルの束を見つけた。それを水道で濡らし軽く絞ってやると神楽の元へと戻った。

「ほら、これで良いか? じゃあ俺は…………」

 しかし、タオルを受け取った神楽の目は沖田を黙って見つめている。まるで『拭いてくれ』とでも言うように。これにはさすがに沖田も戸惑った。いくら病人の看病とはいえ、女子に触れるのは躊躇われたのだ。だが、神楽は早くしてくれと言ったように目を逸らさない。沖田は仕方がないとタオルを神楽から乱暴に奪うと、赤い顔や首を拭ってやるのだった。

「きもちいいアル…………」

 普段の姿からは想像出来ないほどに弱々しい神楽に沖田は妙な焦りを覚えた。暑さのせいで赤く染まる頬や、タオルの冷たさから出た言葉。それらがどうも別の事を想像させるのだ。不謹慎であるとは分かっているのだが、沖田の心臓は素早く脈を打った。

「なにボーっとしてんダヨ……もっとしてヨ…………」

 違う、と分かってはいるのだが、こちらを見つめる溶けきった瞳のせいで勘違いは加速する。沖田はベッドに座ると、横たわる神楽を見下ろした。

 唾が音を立てて喉を通って行く。胸騒ぎの原因は本当に見えている神楽の表情だけなのだろうか。実はもっと前からこうなる事を予測していた気がするのだ。キッカケさえあれば簡単にこうなってしまうと……

 沖田はまだほのかに冷たい自分の手を神楽の頬へと添えた。神楽の頬からじわりと熱気が手へ流れ込んでくる。きっと手の冷たさは神楽が吸い取ったのだ。神楽はそれを味わうように目を閉じると、長いまつげを震わせながら言った。

「なんでお前、倒れたことに気付いたネ?」

 神楽が倒れたのは、あまり見えやすいとは言えない木陰であった。沖田のいるグラウンドからすぐに気付く場所ではない。但し、ずっと神楽を目で追っていれば話は別だ。

 それを素直に伝えるべきか悩んだ。言えば自分の心臓を揺さぶる原因を告白するようなものなのだ。沖田自身もこの想いには、つい先ほど気付かされたばかりである。まだ気持ちの整理がつかなかった。

「誰かが言ったんだ。テメーがうずくまってるってな」

 すると神楽は薄っすらと目蓋を開け、沖田を見つめた。その眼差しは濁りのない真冬の空気のように澄んでおり、そして温かみに欠けたものであった。

「新八? あいつなら言いそうネ」

 明らかにそれは残念だと言っているようで……沖田の胸は更に大きく波打ちだす。

 なんて言われたかった…………?

 その言葉が頭の中を渦巻くも、閉じた口を開くことが出来ない。今も神楽に触れている手は熱い頬を包んでおり、今までにないほどの近距離だ。それなのにどの瞬間よりも神楽が分からなくなってしまった。

 何を考えているのか、何を思っているのか、何をされたいのか、そして何をしたいのか。それは沖田との取っ組み合いではないだろう。沖田もそれに気がつくと、耳の辺りから頬にかけてカァっと熱くなった。

 神楽の熱い手が頬に添えている手へと重ねられる。普段の神楽ならこんなことは絶対にしない。反対に『気安く触るナ!』そう言ってキレられるのが目に見えている。それなのに自ら手を伸ばし沖田に触れたのだ。異常であり、異様であることは誰の目にも明らかである。

 だが決して嫌ではない。滑らかな柔肌を手のひらで感じながら、沖田はもっと神楽に触れてみたいと望んでいた。目蓋や額、耳、唇…………だが、その前に沖田の手は神楽の手と結ばれてしまうと、まずはその指の細さを改めて感じるのだった。

 取っ組み合っている時には感じなかったが、簡単に折れてしまいそうだ。こうして見ていると体操着から覗く首も腕も決して太いものではない。その肌の滑らかさに《女性》を感じずにはいられないのだ。紛れも無く目の前で横たわる神楽は女子であった。

 黙ってただ見つめ合う二人。言葉もなく、指を絡める以外に熱の共有もない。どちらか一方が寄り添えば、簡単に落ちるシーソーに乗っている気分だ。もう何を互いに想っているかなど瞳に映る人物を見れば明らかであった。だが、沖田はどうする事も出来ず、神楽のことをただ目を細めて見ているだけだ。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。それと同じくして保健室のドアが開き、キャサリンや新八達が雪崩れ込んで来た。すると咄嗟に二人の手は離れ、沖田は立ち上がると素早く保健室から出て行った。部屋の中からはギャハハハと笑う神楽の元気な声が聞こえていた。先ほどまでのしおらしさが嘘のようである。だが、沖田はまだ収まらない胸の鼓動にあれが幻ではなかった事を知るのだった。


 家に着いてからも、それは沖田を悩ませた。まだ落ち着かないのだ。思い出せば思い出すほどに心臓が煩く騒ぎ立てる。

 自分の右手を見つめた沖田は、そこに残る神楽の熱を握りしめた。それを自分の熱に重ねるとベッドの縁に腰掛け、ひたすら神楽を思い浮かべた。頬ですらあんなに滑らかで惑わすのだ。きっとあの体操服の下に隠された体ならもっと…………

 ただ親しい女子。いつからか神楽はそんな枠を超えていた。沖田にとって感情を激しく揺さぶられる存在である事は確かだ。苛立ちや怒り、呆れ、嘲笑い……そして、そんなものの中に恋しさがある事に気が付いた。今がまさにそれである。神楽を思い浮かべながら脳を溶かす作業をしているのだが、出来ることならば実際にこの手に神楽を抱きながら溶けてしまえればと思っていた。これはもう認めるしかないのだ。神楽に惚れていると。暑さが見せた錯覚なのかもしれないが、それでも焦がす想いは沖田からヤケドしそうな熱を吐き出させるのだった。