フリスビー01:銀八side

プロローグ


 卒業を一ヶ月後に控えた3Zの教室では、誰かが発案した『卒業旅行』の話で持ちきりになっていた。それを担任である坂田銀八は、随分と浮かれてるなと、それくらいの感覚で聞いていた。誰にも言えない関係を築いている教え子・神楽が『行きたいと』口にするまでは――――――




 学校も休みの土曜日。この日も銀八が一人で暮らすアパートに神楽が遊びに来ていた。付き合ってもう三ヶ月は過ぎているのだ。初めの一ヶ月は学校でも逢引し、非常階段の影に隠れては唇を重ねていた。二ヶ月目も初めての外泊や神楽との熱い夜など、関係は更に深く進展した。そして、三ヶ月目を迎える頃には『結婚しよ』そう思えるほどに銀八の中で、神楽の存在が大きくなっていた。寝ても覚めても神楽のことばかりだ。生徒に手を出したなどと周囲にバレれば一巻の終わりであるが、あと一ヶ月もすれば堂々と手を繋いで外を歩けるのだ。それまでの辛抱だと、神楽には悪いが自宅デートの日々を送っていた。

 今も神楽は夕飯で使った食器を洗う為に台所に一人立っている。銀八はそれを手伝うことなく居間でテレビを観ているのだが、そろそろ風呂の支度でもしようかと廊下に出て台所を通り掛かった。

「今日も泊まっていくだろ?」

 するとその言葉に皿を洗う手を止めた神楽が少し陰りのある表情を見せた。なんとなく嫌な予感がする。こういう雰囲気は大抵の場合、良い結果をもたらさない。

「何か話でもあんの?」

「…………うん」

 銀八はズレた眼鏡をかけ直すと、神楽に顎で『居間へ来い』と促すのだった。


 一つのソファーに並んで座った二人は、くだらないバラエティー番組を観ながら話を始めた。

「で、なに? そんな深刻な顔するような話って」

 銀八はまさかとは思っているが、それが別れ話なのではないかと思っていた。理由は分からないが、なんとなく最近神楽が避けるような素振りを見せるのだ。仮に理由があるとすれば…………考えたくはないが他に好きな奴が出来たとか、この関係に飽きただとか、それとも自分が何かをしただとか、考えれば山ほど出てきた。銀八は思わず項垂れると、鼻につく笑い声の効果音にテレビの電源をオフにするのだった。

「実はネ、今度みんなで卒業旅行に行く話があるネ」

 銀八は胸を撫で下ろした。なんだそんな事かよと。

「ああ、そういや教室でもそんな話が出てたな」

「それでネ、私も行くことに決めたアル」

 これは相談ではないようだ。もう決まっている決定事項らしい。銀八は隣の神楽を覗き込むと目を瞬かせた。

「…………えっ? あ、いや、まぁそうか。そりゃ行きてーよな」

 確かによくよく考えれば銀八にそれをダメだと言う権利はないのだ。いくら交際しているからと言って、何でも相談して決めようぜとはいかないものである。それに一生に一度の卒業旅行なら尚更で…………でも、正直神楽が行くのなら『俺も行きたい』と思うのは当然であった。寧ろ『俺と行こうぜ』それくらいに思っていたのだ。

「お土産はちゃんと買って来てやるから安心しろヨ!」

 神楽がそう言ってにっこりと笑ったものだから、銀八は行きたいと口にする事が出来なくなってしまった。そもそもどうせ一緒に行く連中はお妙や九兵衛、さっちゃん辺りだろう。銀八がそこへ混ざるなど言語道断である。銀八は仕方ないかと笑うと、頭の後ろで腕を組んだ。

「で、どこ行くんだよ」

「う~んとネ、一泊二日で、行き先は……温泉って言ってたアル」

 銀八の頭にクラスの女子生徒がキャハハウフフと風呂に入る姿が浮かんだ。

 悪くねーな、オイ…………

「飯も美味しいって話アル!」

 そう言えば、昨日もクラスで誰かがそんな事を話していたのを思い出した。


『この金額で風呂にも入れて飯も食える。文句ねェだろ』

『どうやらその旅館は飯が旨いって有名らしいでさァ』

『へ~、じゃあ神楽ちゃんも喜ぶだろうな~』


 そこまで思い出して銀八は叫んだ。

「かぐらァ! お前誰と行くつもりしてんだよッ!」

 すると神楽はハァと溜息を吐いて答えた。

「言ったら、行くなって銀ちゃん言うダロ?」

「良いから誰と行くつもりか言えって言ってんだろ!」

 男子生徒も一緒に行くなんて銀八は聞いていないのだ。卒業旅行なんて言うのは名前だけ聞けばめでたい響きであるが、男女共に行くとなるとそれは一気に淫らで不埒で不健全な集まりに変わってしまう。いち教師としてもそれを見過ごすことは出来なかった。

「で! 土方くんと沖田くんと新八と…………他には!」

 こめかみに青筋を浮かべた銀八が叫ぶように問い質せば、神楽はう~んと唸ってあと数名の名前を口にした。

「心配しなくても、姐御も九ちゃんもさっちゃんも行くアル。他にも姐御のストーカーとか九ちゃんのストーカーとか……あとはヅラもスタンバってるとか言ってたアルナ」

 そんな人数で旅行となれば、これはもう何か起きないはずがないのだ。ましてやストーカーズに関して言えば、神楽相手ではないとは言え下心が本体である。やはり自分もついて行くべきではないかと銀八は思っていた。

「神楽、あのな……こんなこと言いたかねえけど、保護者の目の届かない所で男と外泊なんてな…………」

「疑ってるアルカ? あいつらと私達がそういう関係になるって」

 そんなふうに言われてしまうと、どうしても頷くことは出来なかった。信じてはいるのだ。ただ最近の神楽の態度のせいで、この旅行をきっかけに関係が終わってしまうような心配を感じていた。それに教え子の誰かに神楽が奪われるなんて事は、絶対に避けたいのだ。

「先生の気持ちも……分かんだろ?」

 銀八はわざとそんな言い方をすると神楽を困らせてみた。だが、神楽の決意は固いようで頷くことはなかった。

「銀ちゃんは先生だから私達の心配するアルカ?」

 不意に神楽がそんな事を尋ねた。

「ンなもん、当たり前だろ」

 そう答えると何故か神楽の頬が赤く染まり――――――それが照れではない事に気が付いた。ソファーから立ち上がった神楽は慌てて荷物をまとめると玄関へと向かったのだった。それを銀八は急いで追いかけるも痛い言葉が胸に刺さる。

「今日はもう帰るアル」

「ちょ、ちょっと待てよ!」

 銀八は玄関で靴を履く神楽の腕を捕まえると引き留めた。何故怒ったのか理由を聞きたいのだ。いや、それが本心ではなかった。今ここで引き留めることが出来なければ、もう神楽がこの部屋に一生戻って来ることがないと思ったのだ。それだけは勘弁してくれと、銀八は汗の滲む顔で真剣に言った。

「話そうぜ、神楽」

 だが、こちらを振り返り見た神楽の瞳は、夜の海のように深く暗い色をしていた。

「…………ちょっと一人になりたいネ」

 銀八の腕から神楽はすり抜けると、アパートのドアがバタンと閉まった。追いかけることはもうしない。銀八は玄関の壁に腕をつくと額を乗せた。

 何がいけなかったのか…………

 考えても行き当たるのは、旅行に行くなと反対したことだけである。

 その他には…………?

 だが、いくら考えても神楽の想いを汲み取る事は出来ないのであった。