シンパシー

 

5.掠れた声

 

終始神楽の機嫌が悪かった。何も言いはしないのだが、ずっとふくれっ面でソファーの上で膝を抱えている。

「なんかあったのか?」

そう尋ねたが返ってくる言葉はエリカ様だ。

「別に」

これではお手上げだ。それ以外は特に何でもない一日を過ごしていた。テレビを見ながらコーヒーを飲んで、新聞を読んで、仕事は特にない。リビングのソファーの上で軽い伸びをすると急激な眠気にそのままコロンと寝転がった。夢くらい何かすごい特別なものを見よう。そんな事を思いながら。だが、次に目覚めた時に何でもなかった現実は悪夢へと変わっていたのだ。

 

夕方。銀時は目を覚ますと、体の痛みに気がついた。腕は後ろ手に手錠が掛けられ、足も縄で縛られていた。

「はぁ? え、神楽ァ?」

なんの冗談だろうか。銀時は神楽の姿を探すと家の柱に縛り付けられている姿を見つけた。

「おい! しっかりしろ!」

どうにかソファーから降り、芋虫のように這って移動すると神楽の元まで辿り着いた。そしてそこに置いてあったメモ書きに目を通した。

《これは昼間の仕返しだ。カギはチャイナ娘の服の中に突っ込んでおいた。コードネーム・Sより》

どうやら今日神楽の機嫌が悪かったのは、沖田と何か一悶着あったらしい。それよりもなんてことをしてくれたのか。銀時は焦りと怒りで冷静に考えることが出来なくなっていた。

「神楽、しっかりしろ! 起きろ」

「う~ん」

そこでようやく神楽の目が覚め、そして銀時の姿に声を上げた。

「何してるネ!」

「お前のとばっちりだバカヤロー」

柱に縛られている神楽も柱に後手で手錠をハメられていたのだ。もうどうする事も出来ない。

「神楽、カギ取れねぇの? お前の服ん中にあるらしーけど」

神楽は少し考えて、それから顔が赤く染まった。

「なんでそんな所にカギがあるネ……あの馬鹿サドの仕業アルナ!」

「つうか、何したらこんな仕返しされんの?」

神楽はべそをかくような表情になると鼻を子犬のように鳴らした。

「あいつにファーストキス奪われたから、ぶん殴って拳銃奪ってぶっ放して来たアル」

それは犯罪と言うものではないかと銀時は思ったが、沖田にも十分非がある。なんせファーストキスを――――――そこで思い出す。初めて神楽と会った夜を。倒れ込んだ神楽は偶然にも銀時と口づけを交わす事になったのだ。どうやら神楽はその事実を覚えていないようであった。

「初めてのキスは好きな人としたかったアル!」

銀時の顔が青ざめた。

「だよな。つうか、あの沖田くんってお前に惚れてんの?」

「なわけないアル。絶対嫌がらせネ」

嫌がらせでキスする男などこの世に存在するとは思えないが、こんな事までする沖田なら考えられなくもなかった。

「それで銀ちゃん、カギどうするネ。口で取れないアルカ?」

口。多分、この顔の正面についている部分のことだろう。銀時の頭は冷静に見せかけて、全く冷静さを欠いていた。

「あああ? 無理だろぉぉお!」

「じゃあ、どうすんダヨ」

「そうだよな、どうすんだよ」

銀時は神楽とキスをし、裸も見た間柄だ。今更新たなアクシデントが増えても笑い話で済むような気がしていた。それに今は人生における大ピンチだ。四の五の言っているヒマはない。銀時はズイズイと這って行き、神楽の正面でどうにか体を起こした。

「口で、服脱がせて良いんだな?」

目の周りが熱くなってきた。いくら裸を見た間柄とは言え、口で触れるとなると全く異なる。こっちだって男だ。感情と切り離していても体はそう上手く制御できない。

「多分、胸の辺りにあるネ。カギの感触感じるアル」

銀時はその言葉に神楽の胸を見た。いざ、この乳房を前にすると緊張する。神楽はツーピースの真っ赤なチャイナドレスを着ていて、張り裂けそうなボタンの隙間から真っ白な生乳が見えていた。なんて格好なんだと思わずゴクリと唾を飲む。

「やるなら早くやれヨ」

ついに神楽は赤い顔を横に向けると、その体を銀時へと投げ出した。

「よ、よし。素早くやるから……」

そう言って銀時は黙るとその口をお喋りではなく、神楽の服のボタンを外すことに使うのだった。まずは一番上。深呼吸をした銀時は唇と歯を器用に使い、一つ目を外した。そのせいでただじゃなくても見えている神楽の谷間が大きく露わになる。

「ぎんちゃん、鼻息……当たってるネ」

「仕方無えだろ! こっちも必死なんだよ」

出来るだけ触れないように、見ないように。普段ならこの状況に喜んで乳房を舐め回すだろう。だが、神楽相手にそんなことは出来ないのだ。何故だろう。考えても考えても全く分からないのだ。魅力を感じないわけではない。今も正直体が火照っている。それは間違いなく神楽のこの体のせいであると、それだけはハッキリ分かるのだ。

「んじゃ、もう一つ外すから」

「う、うん」

神楽の体が震えている。銀時は再び神楽の乳房に顔を近づけると、上から二つ目のボタンを外した。その瞬間、神楽の乳房を押さえていた服が左右に広がり、谷間からカランと音を立ててカギが落ちたのであった。

「カギ、見つかったネ!」

銀時はそれを口で拾い上げると神楽の背後に周り、ようやく手錠を外したのだった。そうして銀時も解放されると、なんとも気まずい空気が部屋に流れていた。この空気を変えようと銀時は頭を掻いて嘘くさい笑みを浮かべた。

「ま、でもこれで済んで良かったんじゃねーの?」

しかし神楽はそう思っていないようで、握りこぶしを作るとワナワナと震えていた。

「沖田ァアアあ! 絶対、絶対、絶対殺してやるぅうううう!」

この勢いだと本当に殺害しかねないと銀時は神楽をなだめ、自分が話をつけてくると家を出た。あんなことをされた仕返しに行く……わけではない。何故、この自分まで巻き込んだのか知りたかったのだ。

 

沖田が勤務している交番へ足を向かわせると暇そうにスマホでゲームしている姿を見つけた。

「よぉ」

「なんでィ、仕返しに来たんですかィ」

銀時は違うと言うとちょっと出れるかと近所の公園へと誘った。そしてベンチに座るとここへ来る途中に買った缶コーヒーを沖田へ放り投げた。

「なんで俺にもあんなことしたんだよ」

これで十分通じるはずだ。すると沖田は悪びれる様子もなくこう答えた。

「他人の不幸って美味い(うまい)じゃねーですか」

「なかなか良い性格してんのな」

沖田の可愛げのなさは初めて会った時にも感じていたが、ここまで邪心に溢れた下衆とは想定以上であった。

「ところであの女、度々土方さんと会ってんのはご存知で?」

銀時はその言葉に眉を潜めた。聞いてないのだ。前にあったホテル街での騒動以降、神楽が土方と会っているとは全く知らなかった。

「その顔は知らなかったってことか」

沖田はニヤッと笑うと頭の後ろで腕を組んだ。

「どうも土方さんはマジらしく、嫁にしたいと思ってるらしいですぜ」

「はぁ、嫁?」

「件の騒動の責任感じてんじゃねーですか?」

神楽がこの沖田にそそのかされ、整体師に襲われかけた事件だ。しかし、その責任を感じて刑事がそこまでするだろうか。事件の度にそんなことしていたら何度も結婚しなければならないのではないかと銀時は話半分に聞いていた。

「俺は他人の幸せってものを壊すことに生きがいを感じる質なんで、土方さんは特に……幸せから遠のいて欲しいんでさァ」

何が二人の間にあったのかは知らないが、沖田は本気で土方と神楽を裂こうしているようであった。つまり銀時は沖田の駒だったのだろう。土方の幸せを壊すための道具。

「なんで俺を使った。てめーでやりゃ良いだろ」

そこまで言って神楽の言葉を思い出した。

《あいつにファーストキス奪われたから、ぶん殴って拳銃奪ってぶっ放して来たアル》

つまり沖田は自分では上手くいかなかったので銀時を代理に立てたのだろう。神楽をその気にさせる事が叶わなかったのだ。

「ああ、そういうことね」

銀時のその言葉に沖田の顔から笑みが消えると目だけが銀時を見た。

「そういう旦那も、あの女抱きたい癖して手ェ出せねーでいるんだろ? 今回の件で俺に感謝したんじゃねーんですかィ」

銀時の目から余裕が消えると横目で沖田を見ながら言った。

「おいおい、馬鹿言うなよ。あいつは依頼人だぜ? 個人的な感情なんて持っちゃいねーよ」

「そうですか」

軽い口調で言った沖田はベンチから立ち上がると伸びをした。

「じゃ、俺は飽きたんであの女と土方さんから手をひきます。ただこの後、引き裂くも弄ぶも旦那の自由ですぜ」

銀時は何も言わなかった。ただ遠のいてく沖田の後ろ姿を見ながら、言葉の意味を考えていた。引き裂くなど……だが、いい気分では無いことだけはハッキリしていた。口の中に広がる苦味。不快だ。あの刑事・土方が神楽を嫁に――――――神楽は既に知ってるのだろうか。知ってる上で会ってるのか。知らなかったとしたら、神楽は自ら会いたいと願って土方に会っているのか。なんであったとしても今銀時の頭に浮かぶ言葉はたったひとつ。《嫌だ》そんな分かりやすく短い言葉だ。だが、何故嫌がるのか。なんでだ、なんで。自分が壊れていくような気がした。

 

その夜、銀時は家へ帰らなかった。お妙のいるキャバクラへ飲みに出かけたのだ。神楽へと湧き上がった執着。土方に対する嫉妬心。これらの気持ちを胸に抱く立場になどない。銀時はお妙が作った酒をかっ食らうと空いたグラスをすぐに差し出した。

「銀さん、今日はちょっとペースが早くないですか」

驚いてるお妙に銀時はいいんだよと答えると、すぐさま酒を胃に流し込んだ。今夜は酔ってしまいたいのだ。素面ではいられない。銀時はお妙の肩を抱いて抱き寄せるとゆっくりと呼吸をした。女の芳しい香りが鼻腔に広がり、男の本能が呼び覚まされる。

「ぎ、銀さん、ちょっと、あの」

たじろぐお妙に構わず、銀時は更に抱き寄せると耳元で囁いた。

「今夜、お前んちに泊まらせてくれ」

赤く染まった顔がこちらを向き、潤んだ瞳がその言葉を受け入れていた。

「……でも新ちゃんが」

「あいつには神楽を見ててくれって頼んで来た」

女でも抱いて気を紛らわせたい。今自分の頭の中が乱され、破壊されていくような感覚に自暴自棄になっていた。そして気付く。いつの間にか今腕に抱く女をこの街では有り触れた《まやかしの愛》だと見ていることに。心の底から惹かれ合って、惚れ抜いて抱こうとしているわけではない。お妙を映す瞳が揺れた。だが、もうなんだって良い。

「銀時、捜したぞ」

聞き馴染みのある声に顔を向ければ、目の前に立っていたのは桂であった。桂は銀時の隣にどっかり座ると大きな封筒の中にある写真を見せた。

「ついに判明した。鬼兵組は親を裏切って春雨会を潰そうと、戦争をおっ始めるつもりらしい。今その準備をしに歌舞伎町に来ているようだ。そして見つけた……兎をな」

銀時はお妙を体から離すと桂の持って来た写真に見入った。明るい髪色。白い肌。そして何よりも神楽と同じ眼をしている。この男が神威であるとひと目で分かった。話に聞いていた以上に危険な匂いのする男に見えた。

「で、今どこに」

「その男ならアジア街にあるマッサージ店に匿われているようだ」

この情報を神楽に伝えればそれで依頼は完了だ。長くかかった割に随分と呆気ないものだ。だが、あまりにもこの情報は危険すぎる。この街にとっても、神楽にとっても。

「高杉の方は?」

「あやつなら……今頃、ホテル・グレイスの29階にいる」

「親裏切って何やろうってんだ……」

高杉と言う男のことは、ここに居る二人が誰よりも知っている。全てを破壊へと導くアウトロー中のアウトロー。神威以上に危険な男であった。その男の元へ神威を……神楽を向かわせるわけにはいかない。銀時は桂から受け取った写真を破くとライターで火をつけた。

「こうするのが良い。あいつには時期を見て俺から話す」

「それが良いだろう。俺も騒動が起こる前に逃げる準備だけは始めるつもりだ」

桂はそう言うと店から出て行った。

「銀さん、もう私上がれます」

その言葉にお妙の存在をようやく思い出した。だが、すっかり抱く気など失せてしまった。

「悪い。用が出来ちまってな」

「……そうですか」

銀時は席を立つとその足でアジア街へと向かうのだった。

 

歌舞伎町の一角。数年前にここも火の海になり、今は真新しい店舗が並んでいた。あまり訪れたことのない地域ではあったが、ある程度顔見知りもいる。銀時はズボンのポケットに手を入れて界隈へ踏み込むと灯りの消えているマッサージ店のドアを叩いた。

「すいません」

もちろん返事はない。そこで慣れた手つきでカギを解錠するとドアを開け、暗い部屋にもう一度呼びかけた。

「すいません」

すると風を切る音が聞こえ、背後に何者かの気配を感じ、次の瞬間には腕が首に巻き付いていた。だが銀時も想定していなかったわけではない。後ろに体重をかけると隙きをついて腕から逃れた。

「待った! 待った! 俺はカタギだっての!」

影に語りかければ、影は拳銃を構えているらしく撃鉄を起こした。ガチャっと嫌な音が聞こえる。その音に銀時は拳銃の種類を特定した。

「ん? なんだよ、女か? それS&W M36だろ?」

すると突然明かりがつき、目の前に立っていたのは写真の男・神威であった。想像よりも小柄で神楽とそう変わらないのではないかと思うほどに華奢だ。

「ふざけた男だね。殺す前に聞いてやる。誰の差し金だ」

「おいおいおい、お前ら兄妹揃って物騒だな」

すると神威の顔に驚きが見え、そしてすぐに獲物を食い殺すような血なまぐさいものへと変わった。

「あいつを知ってるのか?」

銀時はまだこちらに銃口を向けている神威に軽く両手を上げながら答えた。

「知ってるも何も、お前さんを追ってこの街に来てる」

すると神威はニヤリと笑い遠くを見た。

「……馬鹿だ。あいつは馬鹿だ」

「その馬鹿に心配させる兄貴は大馬鹿だな」

「最後の言葉がそれで良いの?」

トリガーに指がかかる。本気だろうか。額に汗が滲んでくる。だが余裕を見せてハッタリをかます。

「妹に伝える言葉がそれで良いのか?」

「あんた、面白いよ」

神威はそこで拳銃の構えを解くと、ケラケラと笑ったのだ。銀時は全く予想のつかない神威の感情に少々恐怖を感じていた。

「それで? あのボンボンをヤッて組でのし上がろうって?」

すると神威は机の上に飛び乗ると胡座をかき、拳銃をおもちゃの様に放り投げて遊びながら答えた。

「高杉は殺さないよ」

「は?」

心の底から声が出た。高杉を殺す為にこの歌舞伎町へ来たのではないのか。

「どういう意味だ。神楽から聞いた話じゃ、お前さんが高杉の首を……」

すると神威は銃口を銀時に向け、片目を閉じた。

「俺の狙いは今からあんただ」

この部屋は危険な匂いで充満していた。そのせいで鼻は利かず、神威の言葉の真意が読めない。

「まぁ、それは冗談だけどさ。でも、あいつが寄越した男だ。つまらない奴じゃないんだろ?」

品定める目つき。神楽のなんだと思っているのだろうか。銀時は上げていた両手を下げるとはっきりと言った。

「依頼を受けて来ただけだ。兄貴を見つけてくれってな」

「見つけて何が出来ると思ってんだか。あの弱虫に……」

そう呟いた神威の顔は年相応の青年のものに見えた。どこにでも居る兄の顔に。だがすぐにそれは消え去り薄笑いが浮かぶ。

「俺は春雨会を高杉とぶっ壊すまで帰るつもりはない。そう言っておいてよ」

「おいおい、親裏切ってただで済むと思ってんのか? 相手はこの東日本を牛耳る組織だぞ」

酔狂を通り越し、無謀であると感じたのだ。だが、あの高杉であれば本当にやり遂げてしまうような、どこかそんな気もしていた。何よりこの神威の顔には恐れがなかった。命のやり取りに躊躇いがないのだ。

「こんな説教じみた事言いたかねーけど、その手汚したら神楽が悲しむだろ。あいつはそれを心配してんだよ」

「だったらこう伝えてくれ。兄貴は死んだってな」

「俺に嘘つけって?」

すると神威は机から身軽に飛び降りると一つのブリーフケースを持って戻った。それを開けて銀時に見せるとニヤリと笑みを浮かべた。

「好きなだけ持っていくと良いよ。どうせ俺を喜ばせるには足りないし」

思わず生唾を飲み込んだ。ざっと見ただけで100万の束が……数え切れない。

「い、いや。お兄さん。そう言う話じゃねぇんだけど……まぁ、どうしてもって言うなら一つ、二つくらいは……」

なんて情けない事を言いかけて銀時は我に返った。神楽に兄貴が死んだと伝える意味を考えたのだ。その言葉に神楽は悲しむだろう。だが、兄貴を捜すことを諦め、こんな危険な街からは出て行くハズだ。そうすれば神威が残した金を持って故郷で幸せにやっていける。悪い話ではないと思ったのだ。そしてこれは神威なりの妹への愛なのではないかと解釈した。これから戦争が始まろうとしている歌舞伎町から遠ざけるには最善の方法だと。

「二度とあいつと会えなくなっても後悔しないのか?」

神威は何も答えなかった。その代わり背中のフードを被ると手に包帯を巻きはじめた。そしてドアを開けると最後にこちらをチラリと見た。

「俺は死んだんだ。感情はもう、切った」

それだけを言い残すと歌舞伎町の深い闇へと飲み込まれていった。

銀時はブリーフケースを手にすると、神楽の元へ戻ることにした。そして神威は死亡したと言い渡すつもりだった。そのつもりだったのだが、銀時の帰ったアパートに神楽の姿はなく、代わりにそこにはお妙が一人居るのだった。

 

銀時は静まり返っている部屋と、リビングからこちらを覗くお妙の強張った表情に何かがあったのだと察した。張り詰めた空気。新八の姿もなく、しかし玄関には靴がひっくり返って残っていた。

「何があったんだよ」

銀時は靴も脱がず家に上がるとブリーフケースを床に置き、静かに尋ねた。

「……ごめんなさい。私……」

お妙の鼻が赤く染まり、声が震えていた。詫びるような同情を請うような目つき。銀時がこの世で最も苦手とするものであった。

「おい、なんだよ……神楽は? 新八は?」

嫌な予感に奥歯辺りがキュッと痛む。

「でも、どうしても……私は……銀さんと……」

銀時はうつろな目でうわ言のように喋るお妙の両肩を掴み、そして強く揺さぶった。

「お妙ッ! 神楽はどこ行ったッ! 何があった!」

「神楽ちゃんに……言ったんです。高杉がホテル・グレイスの29階にいるって。お兄さんもきっとそこに……」

「バカヤロー!」

銀時はそう言って両肩から手を離すとお妙はよろめいた。そして涙をこぼし、嗚咽を堪えながら背を向けている銀時へとすがりついた。

「行かないで……行かないでください、銀さん!」

お妙の想いが嫌という程に伝わってくる。嫉妬、情愛、嫌悪、独占、孤独。神楽の存在が自分を凌駕し、取って代わろうとしている恐怖に打ち負けたのだろう。

「神楽に言えば、高杉ん所に向かうって……危険だって分からなかったのか?」

分からないはずがないだろう。聡明な女なのだから。それを理解していた上で神楽に居場所を伝えたのだ。それは打算や計算以外の何ものでもなかった。

「依頼が完了すれば、もうここから出て行く。それだけしか頭になくて……ただ私は……銀さんを……奪られたくなかったんです」

この街は欲望の肥溜めだ。奪って勝ち取る事に作法はない。どんな手を使ってでもモノにすることが許される。それでも銀時は人の心だけは、己の心だけは金を積んでも売れないと思い生きてきた。こんなふうに引き止められても何をされても、心は動かない。そして今ようやく分かったのだ。傷つける怖さ故に踏み出せないでいた弱い自分に。嫌われろ。憎まれろ。心が叫んだ。護りたいものがあるのなら、体裁なんて気にしてるんじゃねェと。格好悪くても、情けなくても、ぶたれても、動き出さなければいけない時があるのだと。

銀時は部屋を飛び出すと、スクーターへと跨った。背中の声も気にせずに。どうしても神楽の元へ向かわなければならないのだ。エンジン全開でアクセルを踏むと猛スピードで走り出した。新八が一緒だとしても、相手はあの高杉だ。何をするか分かったもんじゃない。銀時はどうか無事でいてくれと祈りながら歌舞伎町を駆け抜けた。ただ一人の女を目指して。

 

高杉が滞在しているホテル・グレイスのロビーに着くとフロントを横切り……新八の姿を見つけた。だが、その隣に神楽の姿はない。

「おい、ぱっつぁん! 神楽はどうした!」

新八の顔色は真っ青で、だが意識だけはしっかりとしていた。

「行かない方が良いですよ」

「はぁ? だってお前、神楽が」

「神楽ちゃんなら大丈夫です。それと念のため、盗聴器つけておきました……これ、受信機……」

銀時は受信機を受け取り、少し冷静になると新八をロビーのソファーへと座らせた。

「鬼兵組に乗り込むって家を飛び出したもんだから、僕も慌てて引き留めようとついていったんです。それで結局ここまで来てしまって、二人で部屋へ踏み込んだんですが……」

新八によれば、神楽は今高杉とサシで話をしているらしい。見張りも置かず神楽を部屋へ招き入れたようだ。だが、何故?

「とにかく神楽は高杉と居るんだな?」

新八が頷いたのを見て銀時は一人エレベーターへと乗り込んだ。だが、25階までの表示しか見当たらない。パネルを見ればカギ穴があり、どうやらそれを使って更に上の階へとエレベーターで向かうようだ。いくら新八が神楽を大丈夫だと思っていても、こちらは顔を見るまで安心出来ない。何よりも高杉とサシで居ると言うことに胸騒ぎするのだ。銀時は25階までエレベーターで上がるとフロアに降り立ち、適当な部屋のドアを蹴り破った。そして窓を開け、その高さに身震いをするも29階目指して外壁を登って行くのだった。突風が体を浮かせる。だが、軽い身のこなしでどうにか29階のテラスに着くと――――――大きな窓の向こうに神楽の姿を見つけた。薄暗い室内。僅かな明かりが神楽を浮かび上がらせており、その傍らにはブランデーグラスを片手に微笑む片目の男が立っていた。高杉晋助だ。高杉が強張る神楽の頬に手を置いた。思わず奥歯に力が入る。

「何してんだ、あの野郎」

神楽が一歩後退する。だが高杉はそんな神楽を楽しむようにまた一歩踏み込むと、神楽は背後のベッドに倒れ込んでしまった。高杉は待ってましたと言わんばかりに持っているグラスを床へ投げ捨て、神楽へと覆いかぶさる。次の瞬間には銀時が窓ガラスを蹴破り、室内へと侵入していた。その騒音に部屋の外からドアが開き高杉の護衛が入り込む。

「てめー! どこの回しモンっスか!」

二丁の拳銃が銀時へと向けられる。そして驚いた神楽の顔と――――――

「その面、まさかこんな場所で見ることになるとはなァ」

片目だけだが鋭く貫く眼光に銀時は動きを止めた。高杉は神楽から下りると、護衛の女の拳銃を下げさせこちらへと近づいた。

「礼儀ってもんがなってねぇ。相変わらずだな、銀時」

「そういうテメーもモテねーからって、無理やり女連れこむってのはどうなの」

その言葉に高杉は目を閉じると護衛の女が代わりに喋った。

「晋助様はこのガキの条件飲んだだけっス! それとモテないわけねーだろッ! だけど晋助様は大勢に好意を向けられることなんて望んでないっスよ! 絶対絶対そうっス!」

べらべらと喋る女が癇に障るが、気にせず銀時は高杉を見つめ尋ねた。

「その条件ってのはなんだ?」

しかし高杉は何も答えず視線を神楽へと追いやった。それにつられてベッドの上の神楽を見ると瞳が逃げるように横へ流れた。

「神楽?」

「おめぇのその面、見れただけの価値はあったか」

高杉はそう言い、神楽を残し部屋から出て行こうとした。そうはさせるかと銀時が後を追う。

「おい、待て!」

だが、護衛の女がこちらに拳銃を向けながら高杉をガードし、近づく事ができず、そうこうしているうちにヘリが旋回する音が聞こえだした。屋上から出ていくのだろう。銀時は結局追い駆けることを諦め、神楽を見た。

「神楽、大丈夫か?」

しかし、声をかけた銀時を無視し、神楽は身なりを整えた。

「おい、なんだよ。どうした」

何がなんだかさっぱり分からないのだ。銀時は部屋を出ようとする神楽の手首を掴んで引き止めた。神楽の考えが読めない。分からない。それが不安で――――――怖い。

「黙ってちゃ分かんねーだろ」

神楽は銀時を振り返り見ると泣き出しそうな、拒絶するような目でこちらを見た。責めるような視線。耐えられず心が泣き言を喚く。やめてくれと。

「なんで……なんで銀ちゃんは教えてくれなかったアルカ? 高杉のこと。時期見て話すって言ったんデショ?」

お妙から全て話を聞いたようだ。だがそれを責められる立場にない。桂から報告を受け、神威にも会って。だが神楽には真実を隠し、耳障りの良い情報だけを与えようとしたのだ。これは配慮ではなくエゴなのだと、夜の海のように暗い瞳を見て気がついた。この瞳はあの日のものと同じである。孤独を感じている目だ。そして内へ向いた刃が語りかける。誰のせいかと……

「私、銀ちゃんのこと信じてたアル。他の人とは違うって。腹立つこともあるし、いい加減だけど……ちゃんと私と向き合ってくれるって」

その言葉に銀時は神楽から手を離した。触れる資格などないと感じたのだ。

「でももうそんなのどうでも良いネ。すぐに出ていくから」

そう言った神楽はこちらに背を向けた。細い背中が震えている。うつ向いている顔は今どんな表情をしているのだろうか。寄り添って今すぐにでも抱きしめてやりたいのにこの手で触れることはできない。手を伸ばせば触れられる距離に居ると言うのにだ。

「それに……見損なったダロ? 高杉に体差し出して、神威のこと許してもらおうって思ったアル」

高杉は神威が自分の手駒であるにも関わらず、それを隠し神楽を抱こうとした。嫌悪感を覚えたが、神威のことを黙っておこうとした自分もまた同じだと何も言えなかった。それでも僅かだが救いはあった。まだ神楽はここに居て、真実を話すことが許されるのだ。同じではいたくないと銀時は正直に神威のことを神楽に伝えることにした。先程出会ったこと。計画。そして金を残し、深い闇へと消えたこと。更にそれを黙っていようと思ったのは、神楽がこうして高杉へ会いに行く可能性があり、どうしても阻止したかったと言うことも全て。

神楽はこちらに背を向けたまま黙って話を聞いていた。そして何度かその顔を手で拭うとどれくらいかぶりにこちらを見たのだ。その顔には笑みはなく、だが怒りや憎悪などという感情も見られなかった。なんの飾りもなく剥き出しの心でこちらを見ていた。

「神威のことはもう分かったネ。許すアル。これで依頼完了ネ。世話になったナ」

神楽は今夜中にでも街を出て行くのだろう。銀時もそれを理解した。途端に目頭が熱くなる。言葉が上手く出てこない。どうにか喉から言葉を絞り出し、かろうじて喋ったがそれは大したことではなかった。

「兄貴の金、持って行けよ」

しかし、神楽は首を横に振った。

「報酬ネ。銀ちゃんに全部やるヨ」

銀時も同じように首を振った。

「いらね」

神楽の目に涙が溜まる。そのせいで銀時も似たような表情になってしまった。

「もらってヨ。他に何もあげられないから」

「ンナこと、言うんじゃねェ……」

何もいらないとさえ思った。他にはなにも。金なんていくらでも稼げば良い。今までもどうにかやって来たのだ。だから、頼むから――――――神楽の声が銀時の思考を切断した。

「嫁に来いって言われたアル」

こちらから視線を逸し、遠くを見る神楽の目。誰を思い浮かべているのか。刑事のあの男……土方の顔が頭に過ぎった。どうやら奴は本気だったらしい。責任をとって、覚悟をもって踏み出した人間だけが得られる勝利。それはいつまでも怖がり躊躇って、自分の気持ちに見て見ぬふりをしていた男には手に入れられなかったもの。ただそれだけのこと。どこまでも情けない。格好つかない。不器用な男に相応しい結果であった。それでも見栄は張りたいのだ。銀時は神楽へ近づくと震える手を彼女の頭へ乗せた。神楽の顔がこちらへ向く。

「元気で……やれよ……」

「銀ちゃんもナ」

神楽の笑顔が銀時だけに向けられた。頬を伝う涙が、割れた窓から差し込む月光に照らされ輝く。この街に灯るネオンよりも、女達が着飾る宝石よりも、スモッグで霞む星々よりも、どんなものよりも美しく見えた。銀時は神楽の頭の上から手を退けると、それを待って神楽は背を向け歩き出した。徐々ににじんで、ぼやけていく視界。エレベーターへ乗り込む姿が僅かに見え、そして銀時の前から姿を消した。

「行くな……行くなよ……行くな、神楽ァ……」

その掠れた声は神楽に届く事はなかった。ただ一言、たった一言が言えず銀時は神楽を失った。