シンパシー

 

6.告白

 

神楽は一人、ネオンの街を歩いていた。その目には涙が溢れ、時折立ち止まっては顔を拭った。この街に来た時から決めていたこと。神威が戻らなければ、諦めて故郷へ帰る。それだけはしっかりと決めていたのだ。こんな欲望にまみれた街で食われるわけにはいかない。そう強く心に刻み、銀時の元を訪れた。その筈だった。

「えー、あれ? 君、どうしたの?」

道行く男が声を掛ける。だが神楽は無視を決め込むと闇夜に紛れるように狭く暗い通りを歩いた。こんなに胸が詰まって苦しくなったのはいつ以来だろう。母が亡くなった時? それとも父が蒸発した時? いや、兄貴が自分を残し故郷を去った時かもしれない。神楽は古いビルの外壁に背中を預けると目蓋を閉じた。そして声を押し殺すとワァっと泣いた。誰にも気づかれず、誰にも知られず、いつの間にか膨れ上がっていた神楽の想いは今萎むことなく破裂したのだ。

「ぎん、ちゃん……銀ちゃん……銀ちゃんッ」

どうして好きになちゃったんだろう。神楽がこの数ヶ月、心で繰り返し呟いて来た言葉だ。そして今一度……今度は心の中で叫んだ。どうして好きになってしまったんだと。どうして。どうしてだろう。誰も教えてはくれなかった。

 

神楽がそれに気付いたのは、ふとした瞬間であった。見ず知らずの自分を泊めてくれて、それなのに見返りは求められない。銀時の自分の体を見る視線には気付いていたが、そう嫌なものでもなかった。信頼出来る。不思議とひと目見た時からそう思えたのだ。これがシンパシーってものなのかも知れないと神楽は銀時に当初から好意的であった。もちろんいい加減な一面や身勝手さも見えて来て、時折ため息をつきたくなるが、それでも銀時の頼もしさに甘えてしまう自分が居た。こんなに楽しい瞬間は久々であった。心の底から笑って、毎日がずっとこうして続いていけば良いのに。そんなふうに考え始める自分が居たのだ。だが、その考えは間違いであったのだと神楽は身を以て知ることとなった。

銀時には恋人が居た。それでも神楽は心のどこかで《いつか振り向いてもらえるかもしれない》と淡い希望を抱いていた。今までだって何人もの男が神楽に愛を告白し、随分と多くの男を虜にして来た。銀時も普段の態度を見るに神楽へとそう悪い印象を持っていないようであった。しかし、それも全て自惚れであったと知るのだ。

お妙の第一印象は《美しい大人の女性》であった。完敗である。品の良さと綺麗な顔。何よりも醸し出す雰囲気が銀時ととてもお似合いで、二人が笑い合う光景に入り込めない空気を感じた。決して高圧的でなく、控えめな印象すら感じる。それなのに絶対に二人の間に入れないと分かるのだ。自信喪失である。壊してはいけないと悟った。仮に銀時に少しでも浮ついた心が覗けばチャンスもあったのだろうが、そうではなかった。神楽は引きつっていく自分の顔に気がついた。諦めなければならない恋であると理解したのだ。

胸が千切れそう。今までも失恋なら経験してきた。しかし、今回は全く話が違う。一緒に生活しているのだ。朝も昼も夜も、ずっと一緒である。同じ部屋で食事をし、同じ部屋で昼寝をし、同じ部屋で笑いあっている。それなのに結ばれることはない。時折、銀時の目がマジになってこっちを見ているような気がした。だが、それも気のせいなのだ。その証拠にウワサでは女好きの銀時が神楽には一切手を出さない。その事実が全てを物語っていた。心に決めた女性がいるのだ。分かってる。それは分かっているのだが、どこかで願うのだ。好きになってもらいたいと。そして小悪魔が囁く。奪ってしまえと。だが、冷静な頭は考える。誰かの幸せを壊してまで、自分の願いを叶えても良いものかと。銀時からすれば自分はただの依頼人である。そんな自分が銀時をどうこう出来る筈もない。そうは分かっていても、手を伸ばせば触れる事の出来る距離に銀時は存在している。

二人でホテルに泊まった事もあった。あの日、神楽は銀時に自分の想いを伝えてしまおうか悩んでいたのだ。だけど、伝えてどうなるのか。銀時があの人を手放さないのは分かっている。不倫カップルを見ながら神楽は自分が行おうとしている事に嫌悪感を抱いたのだ。やってることは同じじゃないかと。きっとどうやっても結ばれない。結ばれちゃいけない。だから嫌いになれたら良いのに。どんなにラクだろう。そうやって神楽が苦しんでいる事を知ってか知らずか、銀時はどんどんと無責任に踏み込んでくるのだ。頭の中、瞳の中、胸の中へと。無邪気なふりをして、何にも感じてないふりをしてかわしてみても、心はしっかりと傷を作る。一緒に眠るのだって、本当は嫌だった。それだけじゃ嫌だった。手を伸ばして、道徳心なんて裏切って、乱暴でも良いから本当は――――――

好きになっちゃいけない。思えば思うほどに銀時の事が欲しくなる。誰かに言ってもらえないだろうか。好きでいて良いんだよと。神楽は銀時を忘れたい思いと裏腹に、日に日にその気持ちを膨張させていった。

 

ある時、刑事の土方に食事に誘われた。前々から神威の件で世話になっていたが、改まってこんなふうに誘いを受けたのは初めてであった。何か裏があるのだろうか。たとえば……エッチしたいだとか。神楽の目は土方を探るような目付きになった。

「安心しろ。下心はねェ」

土方はそう言って煙草に火をつけると目を閉じた。本当にないのだろうか。ないとすれば、何故食事に誘うのか神楽には見当もつかなかった。

「そう言って酔わせて連れ込もうとした男、何人も知ってるアル」

「ンナことしなくても俺は間に合ってんだ」

そう言って煙を吐き出した土方に神楽はそれもそうかと納得した。銀時と違ってスマートで見るからに女にモテそうなのだ。神楽は食事に付き合うことにすると、本当に土方は食事だけを共に過ごし、神楽を銀時のアパートへと送り届けた。

「着いたぞ」

そう言って車を停めた土方を神楽は謎めいた顔で見た。目的は何なのかと。

「連れて歩くだけなら、他に女居るダロ」

可愛げなく神楽がそう言えば、土方は鋭い目つきでこう答えた。

「飯食う相手くらい好きにさせろ」

「一緒に居て楽しいって思ってんのカヨ」

とてもじゃないがそうは思えなかった。仮に何か理由があるとすれば……同情だ。ただのシンパシー。銀時との間に感じるものとは違う。神楽はハァとため息をつくと車を降りた。

「気持ちだけもらっておくネ。次はもうないアル」

だが、土方はゆっくりと煙草の煙を肺に取り入れると吐き出しながら言った。

「野郎との事で疲れてんだろ?」

顔にでも書いてあったのだろうか。銀時への想いを必死に隠していたと言うのに、この刑事にはすっかり見通されていたようだ。嫌な焦り。しかしそれもすぐに緩和された。

「言うつもりはねェから安心しろ。やめとけとも言わねェ。ただたまには休んだらどうだ? 兄貴の事だけでも精一杯だろ」

素直に優しい言葉だと受け取った。心にじわっと染み渡って、神楽を振り回す周りの男たちとは違う人間だと思ったのだ。

「でも食事だけアル。それ以外は何にも期待するなヨ」

土方は軽く笑うと車の窓を締めて走り去った。妙な気分だ。嬉しいと思う自分が居るのだが、それは初めて銀時への想いを肯定されたからであって……だが、同時に否定された気にもなっていた。ニュートラルな奴。そんな事を思ったが、それはまた神楽の大きな誤算であったのだった。

そこからしばらく土方との食事の日々が増え、銀時の待つアパートへ帰る時間も遅くなっていった。あんまり遅くなると心配をかけるのは分かっていたが、土方が言っていたように確かに休息になっていたのだ。何も小難しい事を考えないで済む時間。それが土方との食事であった。

ある時、帰りが遅くなった神楽は銀時の機嫌を取ろうとコンビニで大好物のいちご牛乳を買って帰った。

「遅くなったアル」

案の定、銀時の機嫌はよろしくないようだ。それは娘を心配する父親と言った所なのだろうか。多分きっとそうなのだ。神楽は曇りそうになる表情を頑張って笑顔に戻すと銀時との会話に花を咲かせた。

楽しい時間が増えれば増える程、蓄積されていく心の痛み。心配されたり、褒められたり。素直に嬉しくなって、銀時ももしかすると同じ気持ちなのではと錯覚してしまう。だけど、それは思い過ごし。銀時にはあんなに美人でよく出来た女性がいるのだから。神楽の千切れそうな心は限界だった。そろそろこの辺りで打ちのめして欲しかったのだ。立ち上がれなくなるほどに強烈な一言を見舞ってと望んでいた。

「銀ちゃんも美人な姐御、嫁さんにもらうダロ?」

期待して言った。これに銀時が照れくさそうな表情で「そうだ」と答えることを。それなのに押し黙ったっきり何も言わない銀時は怯えた子供の目でこちらを見てくるのだ。もうやめて。そんな顔を見せないで。震える神楽の心は銀時を拒絶しなさいと、今すぐ逃げ出しなさいと警告していた。それなのにこちらへ伸ばされた銀時の腕に細い体は掴まれ、そして抱きしめられてしまったのだ。酷い。心が呟く。どうして忘れさせてくれないのか。これじゃあんまりだと自己憐憫に陥った。苦しくて呼吸もままならない。そうこうしている内に目には涙が溜まり、そして溢れた。

「なんでヨ……なんで、銀ちゃん?」

眠りに落ちた銀時は何も答えない。ぶっ叩いて起こして、期待しても良いってことなのかと訊ねてやろうか。そう思うのに体は動かない。神楽もまた真実を知ってしまうことが恐ろしかったのだ。自分はただの依頼人。その関係を直視できない神楽は、もう後戻り出来ないところにまで来てしまっていた。だが前に進むことも叶わず、他の道に逸れることも出来ない。それでも分かる。いつまでもこんな場所に留まってちゃいけないのだと。こうなったら現状を打開し、前に進もうと決めたのだ。たとえそれが望んだ道じゃなかったとしても、一歩踏み出さなければ何も始まらない。そうして神楽は土方と次の食事を迎えることになった。

 

神楽が土方との待ち合わせ場所であるコンビニへと向かおうとしていると、ある人物に呼び止められた。銀時の住むアパートの下でスナックを経営しているお登勢だ。

「ちょっと時間あるかい」

神楽はなんとなく断れない雰囲気を察し、まだ暗い営業前のスナックへと入るのだった。カウンターに立つお登勢は煙草を口に咥え、今夜出すメニューの下準備をしているようだった。神楽は黙ってカウンター席に座ると何を言われるのかと身を固くして待った。

「最近、どこかの男とよく出かけてるみたいだけど。お前の彼氏なのかい?」

土方のことだろう。神楽は違うと首を振った。するとお登勢は特に驚くわけでもなく、更にこう言った。

「銀時なら、やめておくんだね」

どうして土方もお登勢も、こんなにも隠している気持ちに敏感なのだろう。否定しようと思ったが、今更かと認めたのだった。

「分かってるアル。でも、奪ろうなんて考えてないネ……」

するとお登勢は煙草の煙を吐き出して、神楽をまじまじと見つめたのだ。

「誰もそんな事言ってないじゃないか。あの男に振り回される事ないって言ってんだよ。お前さんみたいな美人がね」

神楽は驚いて顔を上げた。てっきりお妙の気持ちを~と説教されると思っていたのだ。

「なんだい。驚いた顔して。私はね、若い頃同じような経験をして結婚したからよく分かるんだよ」

神楽は尋ねた。それはどんな経験だったのかと。

「若い頃、いい加減な男と刑事との間でちょっとあってね。今でもどっちに引かれてたかなんてハッキリと分からないけど、それでも旦那を生涯愛した」

どこか遠い目でそう言ったお登勢に神楽はいつかくる未来を想像した。土方と所帯を持ってごく普通に暮らす自分と、いつまでも休まることのない銀時との危険な日々。お登勢がどちらの男と結ばれたのか、簡単に想像がついたのだ。

「銀時に泣かされて痛い目見る前に諦めるのが賢明だろう? 私はそう思うけどね」

「……ありがとナ」

神楽はそう言うと席を立った。その言葉は有り難いが、もう手遅れなのだ。泣かされて痛い目を見た。そうして今ようやく歩き出そうと思っているのだ。無駄ではなかったと思いたい。

「あ、待ちな! 何かあればここに来るんだよ!」

その言葉を背に聞くと、神楽は土方の元へと向かうのだった。

 

この日の土方は少し様子が違った。それでも淡々としていて、何か大きな事を起こすようには見えなかったのだ。だからなのか、その瞬間は突然やって来た。小さなレストランでの食事中。テーブルの上に置かれたのはこれまた小さな箱であった。神楽は食事の手を止めるとなんてことない顔をしている土方を見た。

「なんだヨ、それ」

「見りゃ分かんだろ」

そう言って箱を開けた土方は小さな石のついた指輪を見せたのだった。これが何なのか。神楽にもすぐ分かった。だが、驚きすぎて言葉が出てこなかった。

「依頼が済んで行き場がなくなったら、うちに来い」

「……そんな簡単に言うナヨ」

「簡単になんて言ってねェ」

よく見れば指輪を持つ土方の手が小刻みに震えていた。だが、出会ってほんの数ヶ月。ましてや交際期間なんてゼロである。正気ではないことが窺えた。

「酔ってんのかヨ」

「酔って馬鹿やるような歳じゃねェ」

真剣な目と僅かに上気して見える頬。神楽はゆっくりと深呼吸した。前に進むと決めたのだ。そうして少し気持ちが落ち着くと席を立った。土方は神楽を見上げることもしない。神楽がこのまま立ち去るとでも思っているのだろう。しかし神楽はそんな予想を裏切ると、土方へそっと近づきしゃがみ込むと自ら唇を落としたのだった。店内の視線が集まる。土方も神楽の口づけに応えると気持ちを察したようであった。この時出した答えが正解であったのか、正直言って未だに分からない。何故ならたった今も神楽は銀時の名前を呼びながら路地裏で一人泣いているのだから。

「銀ちゃん……好きアル……好き」

誰にも届かない告白は街の喧騒に掻き消された。それがあまりにも悲惨に思え、どこか馬鹿馬鹿しい。前に進むと決めたのだ。いつまでも泣いていては本物の馬鹿になってしまう。

神楽はようやく顔を上げると歩き出した。今夜は、今夜だけは慰めてもらおう。そんなことを考えながら。