閉塞世界/桂←神
ガランと音を立てて倒れたグラス。
そこから溢れた液体が、古びた畳を更に汚すように染みをつけた。
まだ、湿っぽい夏を思わせる空気。
夕暮れの西陽が掃き出し窓から強く射し込む。
俺は自分の体が倒され、あまりの眩しさにきつく目を閉じた。
それが隙だと言うならば、俺は紛れもなく動揺していたのだろう。
でなければ、こんな事態には陥らなかったはずだ。
「リーダー……?」
熱い息が顔にかかる。
仰向けに倒れてる俺の上に乗るリーダーは、本当に俺の知ってるあの小さくて逞しいリーダーなのだろうか。
俺の肩を押さえ付けてるその腕は震えており、とてもか細いものに思えた。
一体、そこで何をしている?
下りる気配を全く見せないリーダーに、俺はどうするべきか迷った。
目を開けてリーダーの表情さえ確認できれば、俺にも余裕が生まれそうなものの……正直、感じる気配があまりにも非常だった。
さすがに俺も、この雰囲気がどう言った類いのものか分からないわけではなかった。
分かるからこそ、リーダーを突き落とす事も目を開ける事も出来ずにいた。
ジワリと汗がにじむ。
こんな時、この長髪が暑苦しく感じてならない。
「リー……」
「神楽って呼べヨ」
突然口を開いたかと思えば、お願いとは決して思えない言葉で俺に言った。
これは頼みではない。
命令だ。
だが、リーダーのその言葉に乱暴さは一切なく、反対に随分と控え目だった。
きっと、その聞こえてきた声同様に、心も細く震えているのだろう。
「…………」
俺はどうするべきか。
ただそれだけを悩んでいた。
応えるか否か――
俺は自分の内部に潜む脆弱性を危険視した。
客観的に捉えてるつもりでも、実際は冷静さを欠いていたからだ。
その証拠に俺は息苦しさに呼吸を速めていた。
このままだと、雰囲気にのまれてしまう可能性は充分にあった。
どんなに鍛えられた侍でさえ、激流に足をすくわれず耐える事は難しい。
流される事は如何に容易か。
俺は何も自分の中で答えが出ない内にそうなる事は、どうしても避けたかった。
「一度下りてから話をしよう」
そう言ったにも関わらず、リーダーは俺の上に腹這いに寝転がり、更に顔を近付けた。
今まで以上に感じるリーダーの気配と体温。
俺は思わず眉をしかめた。
俺の耳元で聴こえるリーダーの声。
「話なら下りなくても出来るアル」
何でもない言葉なのに、俺は身体中が痺れるような感覚に襲われた。
言うなれば、ゾクリと言う感覚に更にクラリと来た感じだ。
俺は大きくツバを呑み込んだ。
「なら、どうすれば下りてくれる?」
「……なぁ、ヅラ」
「ヅラじゃない、桂だ」
「オマエなら分かるダロ?リーダーじゃなくて……神楽アル」
俺は何という愚か者なのだろう。
リーダーという名は俺には憧れの名前であり、敬意を込めて呼んでいたつもりだったが、リーダー本人はそれよりも、自分の名前を呼ばれたがっていたとは……
俺はてっきりリーダーが、俺に名前呼ばせたがるのは何か下心があるもんだと勘違いしていた。
恥ずかしい話、リーダーが俺と、ただれた関係にでもなりたがってるのではないかと疑ってしまっていた。
俺を押し倒し、乗り掛かってまで訴えたかった事。
なら、いくらでも呼んでやろう。
お前のその名前を。
「神楽殿」
「えっ」
「神楽殿、下りてはくれぬか」
「殿とか何か可愛くねーヨ」
確かにリーダーの言うように、少女に対して殿はやり過ぎな感否めない。
ならば何が……
「神楽ぴょん」
「はっ?」
「神楽ぴょん、下りてはくれぬか」
「古臭いネ!」
随分と可愛らしい感じだと思ったのに。
リーダーのお気に召さなかったようだ。
可愛く尚且つ古くないものか。
そう簡単には思い浮かびそうにはなかった。
候補として挙がったのは……かぐらん!や、魔法少女かぐら☆マギカ、他には……などと考えを巡らせていた俺は、やはり隙だらけだったのだろうか。
自分の唇にかかる熱い吐息に気が付いた。
それもかなり近い距離だ。
思わず俺はリーダーの両肩をガシリと掴んだ。
「リ、リーダー?」
「こたろ……さん」
その言葉は俺の五感を刺激した。
耳に入った声は俺の脳天を揺さぶり、触れてる身体は汗を掻き、今までにない距離に嗅いだことのない甘い匂いを知り、口の中は甘酸っぱさが広がった。
そして、遂に――俺は薄目を開けて目の前の景色を覗き見してしまった。
そこはもう西陽など射さない薄暗い部屋が広がっていた。
そして、何よりも近い距離にリーダーの顔が……唇が俺を見下ろしていた。
「小太郎さん」
今度はリーダーの唇がハッキリと動いて俺の名前を呼んだのだった。
そのあまりの光景に俺は、うっすらと開けていた目を急いで閉じた。
心臓が破裂してしまいそうだ。
どういうわけか耳まで熱くなる。
目を閉じたと言うのに今も尚、リーダーの艶かしく動く唇が見えていた。
俺はどうしてしまったのか。
急に呼びたくて、呼びたくて仕方がなくなった。
「か、神楽」
「もう……一回」
「神楽」
唇を突き出せば触れ合ってしまいそうな、そんな距離で互いの名前を呼び合った。
この行為にどんな意味があるのか。
やはり、リーダーは俺とどうにかなるのを望んでいるのか?
もう、俺は頭で考えるのが馬鹿らしく感じた。
この雰囲気の流れを塞き止めていた理性などと言う堤防も、いよいよ決壊してしまいそうだった。
「やれば出来るアルナ」
そう言って、リーダーは優しく俺の頭を撫でた。
ヨシヨシするのは大好きだが、どうやら俺はヨシヨシされるのも好きだったらしい。
リーダーの手が俺の頭に触れているだけで、こんなにも心地が良いのに、これが手と手、額と額、鼻先と鼻先……唇と唇になれば一体、どうなってしまうことか。
もう、考えるより、いっそ体験してみる方が早そうだった。
どのみち、俺には采配を振る権限などなかったのだ。
俺の想いや意見などには興味がないのか……リーダーは何も言わず、ただ静かにこの俺に唇を落とした。
その瞬間に、俺の心臓は一度停止してしまったように思えた。
そこに居るのは、本当にリーダーなのだろうか。
などと言う冷静な頭は持っておらず、俺はほとんど硬直していた。
だが、必ずしも理性を失っていたわけではなかった。
漠然で構わない。
理由を知りたかった。
このような行為に至った理由を。
それを知り得ないない限り、これ以上受け入れてはならなかった。
何故、俺に――この俺に熱を移すのか。
それを“神楽”に問いたださなければ……
俺は自分の体にピッタリと引っ付いているリーダーを引き剥がした。
もちろん、リーダーの不安そうな顔が目に入る。
それによって俺が傷付く事も分かっていた。
きっと、リーダーはリーダーで俺に聞きたいのだろう。
「どうして……ヨ?」
俺は自分を見下ろすリーダーの頬に手を伸ばし、軽く撫でた。
「俺も聞く。何故、俺だ?」
「……わかってんダロ」
そう言ってリーダーは俺の髪をすくい上げると、躊躇わずに口付けをした。
その行動も、今までの行動も、飽くまで裏付けに過ぎない。
そうではない。
俺はもっと確かなものが欲しかった。
俺を求める理由を露にして欲しい。ただそう願っていた。
「リーダー……これ以上は……いけない」
リーダーは俺の髪から唇を逸らせ、首元へと滑り込んでいた。
それを汗ばむ俺は必死で止めた。
震える頼りない声で。
リーダーの息が首筋へ当たる。
それはとても熱く、俺を溶かしてしまいそうだ。
抗う力はそんなに残されていない。
それは悔しいくらいによく分かる。
だから、早く終わらせて欲しい。
「まるで生殺しだな」
「……わざとアル」
悪びれる様子もなく言ってのけたリーダーに、俺は末恐ろしいものを感じた。
いい加減、教えてくれ。
リーダーは俺に何を望んでいる?
一体、何を……
「私は、欲しいだけヨ。ただ、オマエを」
その待ちわびていた言葉に俺は、ようやく己を解放出来ると思っていた。
それはリーダーにも伝わっていただろう。
だが、俺はその結末を結局は選ばなかった。
――いや、選べなかった。
「もう少し、リーダーが大人になってからな」
そう言って、俺は体を起こし、リーダーの頭を撫でた。
「待てないヨ。そんなの、私がッ!」
俺は最後にもう一度、今度は自分からリーダーの唇を塞いだ。
リーダーの想いも、俺の想いも全部を押し込めるように。
深く深く、奥の方へと。
「忘れろとは言わぬ。ただ、もう少し……」
「じゃあ、ちゃんと待ってろヨ。私が大人になるまで、どこにも行かずに待ってろヨ」
苦しそうな顔のリーダーに俺の胸もえぐられるように痛みはしたが、ここから先はまだリーダーには進ませられない。
それが、この俺のリーダーへの誠意だ。
どれくらい経ったか。
倒れたグラスから溢れ出た液体は、すっかりと乾ききっていた。
もう、畳に跡を残してはいなかった。
俺は本当に待っていられるのか。
リーダーはいつまで俺に胸を焦がし続けるだろうか。
未来の事は誰にも分からない。
だが俺は、それを承知でさっきの言葉を口にした。
若いリーダーには残酷かもしれないが、きっともう少し経てば伝わる筈だ。
大切に思っていると。
2011/09/23
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