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赤い糸/兄神

 

雨も雪も何も空から舞い降りてくる事もない、青空の覗くよく晴れた日。

江戸の街に大きな船だけが落下するように舞い降りた。

そんな日に私は傘を差す人とすれ違った。

思わず足を止めて振り向けば向こうも足を止めていた。

傘から覗く白い手と、長い束ねた明るい髪色が私の心臓をえぐる様に苦しめた。

 

「かむっ!」

 

絞られた喉は思うように私に名前を呼ばせてはくれなくて、ガタガタと震える歯が言葉さえも奪っていった。

アイツはこちらに背を向け突っ立ってるだけで決して私を見ようとはしなかった。

たかだか3m程の距離なのに声を掛けることすら出来なかった。

――どうして?

私は何も言わない背中に問う。

私に気付いてるなら何か言えヨ。

何もないならさっさとどっか行けヨ。

だけど私からここを離れるような事はしたくなかった。

もう二度とあの背中を何も出来ず見送るなんてしたくなかった。

例えそれが無理でも、まだまだ弱いと言われても“護りたいもの”を前に何も出来ずに逃げ出すなんてしたくなかった。

ようやく震える右手をあげて、遠く届かない肩を叩こうと空を掻いた。

 

「無駄だよ。お前じゃ俺の背中には届かない。背中どころか……どこにも届きやしないよ」

 

久しぶりに聞いた声は変わってないはずなのに、道の脇に残る雪よりも冷たく私に刺さった。

私は何も掴めなかった右手を降ろすと、言いたい事が口から上手く出ないもどかしさに唇を噛み締めた。

相変わらず同じ向きで止まったままの神威は、私を見ることはなく白い手だけを覗かせてる。

 

「あれ?珍しく何も言い返さないね。達者な口も地球なんて小さな星にいたら、同じように小さくまとまっちゃった?それとも言葉が出ないの?」

 

その言葉に頬の筋肉がぴくりと動き、私は自分でも信じられないくらい低い声を出した。

 

「何しに地球(ここ)に来たアルか」

 

神威は暢気に傘をクルクルと回した。

 

「少しは強くなったみたいだし春雨の勧誘に……」

「ばか言うなネ!誰がッッ!」

「って阿伏兎なら言うんだろうけど。お前には偶々すれ違っただけだ。もしかして期待した?」

「オマエッッ!」

 

私は自分の顔が熱くなってるのに気付いてた。

期待してたわけじゃない。

アイツがわざわざ私を捜して会いに来るような奴じゃないことも知ってる。

なのに、こうして口に出されるとよく分からない悔しさが私を襲った。

 

「神威、もう春雨なんてやめるアル」

「名前を呼ばれるなんて久しぶりだね」

「おいッ、聞いてるアルか!?」

「俺に辞めさせてどうしたいの?どこかの星に留まってろって?やっぱりお前とは……」

 

どうして分かり合えないんだろう。

同じ血が流れてて、同じ星に生まれて、同じ傘を差してるのに。

私とは分かり合えない。

神威の言おうとしてる言葉はまさしく今、私が思ってることと同じで。

皮肉って言うのかな。

どうして、こんなに同じなのに分かり合えないアルか。

ただ私は昔みたいに――

 

「オマエは何も感じないアルか。私と会って、足まで止めて。それでも何も感じてないアルか?」

「…………」

 

神威は何も言わなかった。

その変わりにこちらに向くことはないと思ってた顔が私を見た。

その瞳の色や形は私とそっくりで、なのに何も映ってない瞳に怖くなった。

こんなにも光の射さない、深く暗い闇が存在するのかと。

 

「お前とこんな話をする為にこの星に来たわけじゃないんだけどな」

「わかってるネ」

 

行き交う人々は相変わらず忙しそうに歩き回る。

そんな人たちからすれば、こんな私達も喧騒に溶け込んで、周りからすればただの男女の会話に見えるんだろうか。

だとしたら私達、どんな話をしてるように映るのかな。

世間話?

痴話喧嘩?

それとも、もっと仲良く見えるんだろうか。

ちっとも心すら寄り添ってないのにね――

 

「もう行けヨ。さっさと私の前から消えるヨロシ」

「言われなくても分かってる」

 

こんな言葉を掛けたいわけじゃない。

また背を向ける神威に私は鼻の奥がツンと痛くなる。

このまま、また離れていったら、お互いの名前も顔も声も忘れていくのだろうか。

そして、仮にどこかで会ったとしても、もう全然誰だか分かんなくて、家族だった事も同じ血が流れてる事も一生思い出す事がなくなってしまうんだろうか。

神威は何も言わない私に見切りをつけたのかまた歩き出した。

立ち止まったのはきっと何か思う事があったから。

じゃなかったら、関係ナイなんてぶった切った妹に話し掛けたりなんてしない。

私はそんな風に自分に良いように捉えたかった。

だって、もう無理だもん。

ずっと引き留めたかった背中を前にまた同じ事をするなんて。

 

「神威ッ――」

 

私は傘を投げ捨て走った。

追い掛けられてると知りながら逃げない背中を。

罠かな。罠かもね。

触れたらそれは“死”を意味するとしても、私は伸ばさずにいられなかった。

わざとらしくゆっくり歩く神威にスグに追い付いて、私は右手を神威の肩に置こうとした。

 

「殺すよ」

 

胸を突き刺すような鋭い言葉が私の動きを止めた。

足を止めた神威は振り返らずに話を続ける。

 

「俺に触って良いのは、殺意を持った拳だけだ。あとは虫酸が走る」

 

ここまで来て、やっぱり私は神威に触れる事も出来ないのかな。

悔しさが込み上げて、強くない自分を罵った。

“死”に恐怖する事はそれは弱さの表れだった。

 

「覚悟もない奴が……いや、相手を殺る事も出来ない奴に俺を引き留めるなんて無理だよ」

「だって、殺したくない」

 

どんなバカ兄貴であっても私は殺したくなんてなかった。

だけど、代償を払わずに何か出来るなんて思ってない。

だとしたら、やっぱり私は自分が死に直面するしかないんだろうかなんて馬鹿な事を考えた。

それで神威が変わってくれるとも思えなかったけど。

 

「私にはこうするしか出来ないヨ」

 

ガラ空きの背中は私を甘く見ているからだろう。

そんな事は分かってた。

初めから私に隙を見せてるのは分かってた。

ただ、そこに付け入る覚悟がなかっただけ。

何を今更されても言われても……もう、全部アリだわ。

 

「だって好きアル」

 

神威の背中にしがみついた私は自分でも何してるんだろうって思ってた。

だけど、もう我慢なんて出来なかった。

命を引き換えにしても、私はこの背中に頬を寄せたかった。

一瞬でも良いから昔を思い出して欲しかった。

一瞬でも……私を思い出して欲しかった。

神威は何も言わなかった。そして何もしなかった。

振り払う事もなければ、突き飛ばす事もしない。

ただ私は血のかよう温かい背中に懐かしさを覚えた。

いつかおぶられた事。

寒い夜、狭い布団でしがみついた事。

色んな事を思い出した。

神威も何か思い出してくれないかな。

微動だにしない神威に私は言った。

 

「殺す拳じゃなくてもオマエに触れたヨ」

 

神威はやっぱり何も言わなかった。

 

「神威……にぃちゃん」

 

一瞬、耳を付けてる神威の背中から大きな音が聞こえた気がした。

 

「かむっ」

 

神威は私の腕を引き剥がすとこちらを見ずに言った。

 

「一つ訂正。俺に触ってもいいけど街中は良くない。それともう一つ」

 

顔だけこちらに向け、私を見た神威の目は、さっきまでの冷たさや暗さを感じさせず私をしっかりと映していた。

 

「神楽」

 

突然、呼ばれた名前に私は呼吸が荒くなった。

瞳孔が開いたせいか視界が霞んでいく。

体が熱くなって、喉の奥が渇いていく。

震える心臓が私の唇まで伝わる。

噛み締める歯がカタカタと音を立て出す。

神威の体がゆっくりこちらに向き、伸ばした手が私の頭に静かに下ろされようとしていた。

思わず目を瞑った。

何をされるのか。私は期待してしまった。バカだった。

そんなのあり得ないのに。

その察し通り、神威の手が私の頭を撫でる事はなかった。

私の頭上で止まったままの神威の手が、すごく遠くにあるように見えた。

 

「この手は血で染まりすぎた」

 

そう言って私を見た神威は、ずっとずっと探していた私の兄貴だった。

口を開けばもう自分が泣いてしまう事が分かってた。

何も言えない私はただ神威を見つめ返すしか出来なかった。

 

「こんな事を話すのも今だけだ。もう、全部忘れろ……俺を探すな」

 

神威はもう振り向いてくれる事はなかった。

私を見てくれる事も、私を妹だと思ってくれる事も。

傘を差したまま軽々と飛び上がる神威は、私の前から嘘の様に消えていった。

 

“お前を探すのもこれが最後だから”

 

飛び立つ瞬間、神威は確かにそう言った。

そんな事、初めから分かってたヨ。

こんな広い町で偶々に出会うなんて、それこそ私達引かれあってるアル。

でもきっと、また出会える気がした。

予感って言うのかな。

私は見上げた青い空に誓ってみせた。

一生掛かっても、私の……私達家族の兄貴を取り戻してみせるって。

 

2011/5/4

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