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目には目を/沖→神

 

胸が苦しい。

呼吸も絶え絶えだ。

じめっと湿った布団の上で俺は天井を仰いでいる。

意識はある。

だが、ヒュウヒュウ鳴る喉が俺の身体中の細胞を死滅させようとしてるようだった。

そういや、前にもこんな経験をした。

あれは何時だったか――そうだ、あれは江戸に出てくる遥か昔だ。

まだ姉上もご健在で、近藤さんが道場を開いてた時だ。

俺の瞼の裏に武州の懐かしい景色が蘇る。

 

 

 

青々と繁った草。

それを掻き分けて入れば、俺だけの小さな道場があった。

そこで俺は自分の背丈程の竹刀を毎日振り回していた。

まだそれが楽しくて、飽きたなら止めて。

たまにバッタを追い掛けては、空が茜色に染まる頃まで遊び回っていた。

でも、俺はいつも一人だった。

一人ぼっちだった。

 

そんなある日、俺の道場に訪問者がやって来た。

俺よりもずっと小さいそれは、二つの目玉を大きく開けて俺だけを見ていた。

俺も負けじと大きく開いた目でそいつを見た。

 

「ニャア」

 

そう鳴いた奴は俺に何を言いたかったのか。

気付いたらそいつを抱えて俺は走っていた。

姉上の元まで全速力で走っていた。

あまりにも速く走ったもんだから俺は息が切れて、呼吸が苦しくなって、目が回りそうで、だけど胸の中のこいつを姉上にも近藤さんにも見せたくて、無我夢中で走っていった。

 

「姉上!見てください!」

 

縁側で俺の帰りを待ってた姉上に、俺は胸の中のそいつを掲げてみせた。

温かくて、フカフカで、俺をざらついた舌で舐めてくる。

俺は姉上にお願いして、こいつを家に置いてもらおうと思ってた。

こいつを門下生にしてやろう。

そしたら、ずっとこいつと一緒にあの小さな道場を守っていける。

そんな事を考えてた。

優しい姉上ならきっと了承してくれる。

そう思っていた。

だが、姉上は口に手を当て、驚いた表情で俺を見ていた。

 

「そうちゃん!一体どうしたの?」

「拾ったんです!」

「違うの!そうちゃん……顔が真っ赤よ!」

 

俺は自分の体の異変にようやく気が付いた。

走ったせいで苦しいと思ってた喉や胸。

蚊にでも刺されたのかと気にもしてなかった痒み。

いや、痛み。

それらが、俺に何かを訴えかけていた。

俺は途端に泣き出したくなり、訳も分からない恐怖に姉上にしがみついた。

すぐに近藤さんが駆け付けて、医者が俺を診た。

そこからの記憶は曖昧で、気が付けば陽がだいぶ落ちたのか、部屋から見える空は暗くなってた。

俺は布団に横たわらせていた体を起こした。

 

「僕、生きてるんですか?」

 

枕元で俺を看病してくれてた姉上と近藤さんは、俺が回復した事に飛び上がって喜んでくれた。

 

「ミツバ殿が血相変えて駆け込んで来た時はどうなる事かと心配したが、無事に治まってこれならもう安心だな!」

「そうちゃん、お腹空いてない?お粥食べられ……」

「あいつはどこに行ったんですか?」

 

俺は珍しく姉上の言葉を遮った。

布団から抜け出ると俺は裸足で庭へと下りた。

 

「そうちゃん……」

「僕、あいつを門下生にするって、してやるって決めてたんです。あいつはどこに行ったんですか?」

 

顔を見合わせた二人は医者が説明した事を俺に話した。

だが、難しい言葉ばかりで当時の俺には理解が出来なかった。

だから、近藤さんは、もうあいつと遊んじゃダメだとその一言を俺に告げた。

 

「遊んでないです……稽古するんです」

「そうちゃん、違うのよ。あのね、アレルギーって言うのはね……」

「稽古は遊びじゃないです!遊ばないです!」

 

俺は叫ぶように言った。

姉上が困った顔をしてるのも承知で。

どう考えても納得がいかなくて、なんで目が覚めたらあいつがいないのか。

あいつが俺に何をしたってのか。

俺は自分の苦しかった体の事もすっかり忘れて訴えていた。

もう一度、触れたいと。

 

「ニャア」

 

まるで願いが叶ったのか、縁側の下から小さな門下生が顔を覗かせた。

俺は嬉しくなって、そいつを胸にもう一度抱きすくめようと手を伸ばした。

だが、近藤さんの方がひと足早かった。

 

「総悟、またミツバ殿に心配をかけたく無かったら、もう触っちゃいけねぇ。こいつだけじゃなく、どの猫にも触っちゃいけねぇ。稽古なら俺が相手してやるから」

 

そう言うと近藤さんはあいつを抱えてどこかへ行ってしまった。

立ち尽くす俺に姉上は声を掛けた。

 

「そうちゃん、お医者様がおっしゃってたわ。大きくなれば治る人や症状が軽くなる人もいるって。だから、頑張ってご飯を食べて大きくなりましょう」

 

俺はきっとその言葉に素直に頷いた筈だ。

だけど、俺は唯一の門下生を失い、また一人ぼっちになった。

 

それから暫くは外に出してもらえなかった。

それは俺がまた猫にでも触って、アレルギー反応が更にキツく出たら危ないからだと説明された。

だけど、縁側で座ってると、向かいの塀からこっちを見てる小さな門下生はいっぱいいた。

全員道場に連れて行ってやりたかったが、俺にはただ見てるだけしか許されなかった。

面白くなかった。

つまらなかった。

苛立ちもした。

だけど、何よりも……アレルギーなんかよりも俺の胸はずっとずっと苦しかった。

触れたいのに、触れちゃいけない。

近寄りたいのに、近付いちゃいけない。

張り裂けそうな胸の痛みは幼い俺にはキツかった。

だが、そんなのは何度も寝て起きてを繰り返す内に忘れていき、成長と共に薄らいでいった。

そんな痛みなんて、すっかり忘れてしまってると思ってた。

 

俺は懐かしい記憶を辿りながら、今自分の身に起きてる事が何なのか漸く思い出した。

そうだ、アレルギーだ。

アイツに引っ付こうとすれば苦しくなって、触れたいと願えばむず痒くなる。

じゃあ反対に離れるかと距離をおけば、触れたくて近付きたくて堪らなくなる。

あのお団子頭のバカ女に。

布団の上の俺は、治療出来そうもないこの症状に手を焼いていた。

塗る薬があるなら俺にくれよ。

もう、これ以上俺を苦しめないでくれ。

 

チャイナに近付けば近付くほど、苦しくなる胸は暴言を吐く。

触れたいと願えば願うほど、むず痒くなる体は拳を繰り出す。

掴み合いの罵り合い。

本当に俺が望んでるのはなんだ?

チャイナと喧嘩がしてぇのかよ?

今日だって、偶々公園で出会ったワケじゃねぇ。

非番の俺はアイス片手にアイツが来るのを待っていた。

仕事をサボンるのなんて何ともねぇ。

ただ俺はぼんやりとアイツが来ればいいと思っていた。

そして、あの鮮やかなチャイナドレスが遠くに見え出すと、体がざわめき出す。

そして、望む。

俺に痛みを与えるその拳を開かせたいと。

俺を睨み付けるその瞳に映りたいと。

俺に暴言を吐くその唇に――

だが、捕らえようとする程にアレルギー反応はキツく出る始末。

拳に拳。暴言には暴言。

望めば望む程、俺の胸は締め付けられて引きちぎれそうになる。

ホントはもっと普通に会話してぇんだよ。

なのに、なんで……心ん中の気持ちに反して、体は言うこと聞かねぇんだよ。

 

「ニャア」

 

外は既に夕暮れで、僅かに開けている障子の向こうから心地よい風が吹き込んだ。

それと共に、屯所に住み着いてるノラ猫が爪で障子を引っ掻いていた。

 

「こっち来るんじゃねぇ」

 

勿論、そんな言葉が通用する相手でもなく、俺の部屋へとヅカヅカ入ってきた。

何て図々しい奴だ。

人の頭ん中まで土足で踏み荒らすあの女と重なった。

俺は体を起こしてノラ猫の首根っこを掴んむと、立ち上がり障子を開けようとした。

そこで、俺は思わず笑った。

アレルギーなんてちっとも出ないじゃねぇか。

いつからか、すっかり丈夫になったのか、子猫一匹くらいどうってことなかった。

俺は障子を大きく開けると部屋から縁側へ出た。

目に飛び込んで来たのは、俺を捉える二つの大きな目玉だった。

それは俺だけを見ていて、他には誰も見ていなかった。

だから、俺も負けじと大きく開いた目でそいつを見た。

 

「猫、追い掛けてたら……ここに入ったアル」

「あ、あぁ……入って来たぜィ。ホラよ」

 

ノラ猫をチャイナに手渡そうとする俺は、微塵もむず痒くなかった。

口を開くもそれは暴言ではなかった。

目と目が合うも睨み合いではなかった。

俺はもう、チャイナに触れ合って良いような気になった。

 

「そいつ、名前ついてんだぜ」

「サド丸じゃないだろーナ」

「なんで分かったんでィ」

「お前の考えてる事くらいお見通しヨ」

 

そう言ってチャイナは、俺に今まで見せた事ないような表情を浮かべてみせた。

それに胸の苦しみが一気に加速した。

これはアレルギー反応なんかじゃなかった。

いい加減、胸を苦しめる原因は分かってんだ。

どんな病気よりも俺を酷く苦しめやがって。

 

「おい、チャイナ娘」

「なんだヨ」

 

俺は今一度、触れてみたかった。

 

「ちょっと、触らせてくれよ」

「オマエに動物可愛がる心がアルネ?」

 

もしかしたら、それで更に苦しくなるかもしれなくて。

だけど、俺は望んでしまったから。

 

「心があるから……こんなに苦しんでんだよ、バカ女」

 

チャイナの想像よりも小さな体を俺は抱き締めた。

胸の苦しみがそれで解放される事はなかったが、俺はもう見てるだけなんて嫌だったんだ。

 

「ね!ねねねねねこの事じゃないアルカ!ブブブチ殺すアル!」

「誰が猫なんて言った。ブチ殺せるもんなら殺してみやがれィ」

 

チャイナはその言葉通りに俺に頭突きを食らわせた。

痛みは尋常じゃなかったが、胸の苦しみはそれに比べると随分マシになっていた。

 

「いってー。マジでやるか?普通」

「ふ、普通じゃないからやっちまったアル!それくらい分かれヨ!バカサド!」

 

俺は姉上の月命日に一つ報告をしようと思った。

生前、俺に年の近い友人が出来ない事を心配していた姉上に。

バカでムカつく地球人でもない女ですが、唯一遊びで殴り合える友人が出来ました。

もう、僕は一人ぼっちじゃありませんと――

 

「普通じゃねぇって、興奮でもしてんのかよ」

「デリカシーの欠片もないアルナ!銀ちゃんのがまだマシヨ」

 

本当は友人の枠なんて、とっくに突き破りたいなんて思ってたりするけど、やっぱり俺らには、まだそれを越えられる程の勇気や踏ん切りがもう一つ足りなかった。

 

「ケッ、旦那よりはまだ俺の方が踏まえてらァ。それにてめぇだってデリカシーねぇだろ」

「知らないアル!あぁ!もう、こっち来んなヨ!」

 

引っ付けばまた喧嘩になって、もつれ合って。

まだもう少し縮められない距離や、旦那の名前にムカつきはするけど、チャイナのバカみてーな赤い顔にどこか嬉しくなった。

テメーもちっとは俺にたじろいでんのかよと。

あとどれくらいか俺が素直になれりゃ、この距離を更に詰める事も出来んだろーが……

 

「逃げんのかよ、クソチャイナ」

「何を! 逃げるなんて誰に言ってんだ犬公! やるアルカ?」

「上等でさァ」

 

だがやっぱり俺らには、拳同士の方がずっと素直に語らえるらしかった。

 

2011/07/23

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