le pave de l'ours・上/新→←神
銀時が姿を消した。
それは突然だった。何の前触れもなく訪れたのだ。万事屋には神楽と新八と定春だけが残り、三人はいつか戻る銀時の帰りを信じて待っていた。
しかし、どれだけ朝を迎えようと銀時は帰らない。その間も街の腐敗は進んで行き、やり場のない怒りと悲しみだけが人々の心を支配した。それでも希望は捨てない。神楽も新八も銀時が生きている事を信じ、愛するかぶき町を守り続けていた。
だが、日が経つに連れ次第に神楽と新八の心はすれ違い、今ではどちらが万事屋の――銀時の後継者として相応しいのかを争う仲となってしまった。もう、スナックお登勢の上の部屋は空っぽ。誰も訪れる事はなく、ただ埃が積もるだけであった。
今日も街でゴロツキ共が暴れている情報を聞きつけ、万事屋新八っさんとして志村新八が駆け付けた。腰に携えた木刀には“洞爺湖”の文字。新八はその木刀を引き抜くと、モヒカン頭のゴロツキに斬りかかった。
「何で来るわけ?」
でかい弾丸が目の前を掠めたかと思えば、砲煙の向こうに一人の女のシルエットが浮かび上がった。
神楽か――
新八は眼鏡を指で押し上げると、先ほどまでゴロツキに向けていた木刀を腰へと収めた。
「貴様こそ何故来た? 女子供が出る幕じゃないだろ」
すると煙が消え去り、銀時の着物と良く似たチャイナドレスをまとった神楽が髪を揺らした。
「私を誰だと思ってるの? 万事屋グラさんよ?」
新八は地面で伸びているゴロツキ共を踏み渡ると、足早に神楽の元へと向かった。そして神楽を間近で睨みつけると、冷めた表情で言ったのだった。
「万事屋を名乗るのは、この俺一人で充分だ」
神楽に背を向けたあの日から、新八は万事屋新八っさんを名乗っていた。しかし、それと同じように神楽も万事屋グラさんを名乗っていたのだった。
銀時の後継者は二人も要らない。
だが、どちらも譲る気はなく、万事屋を名乗る事をやめはしなかった。
「なら、あんたが私の下に入りなさいよ。まぁ、戦力的には定春と私とで充分なんだけど」
神楽はそう言うと睨む新八に背を向けて、あっという間にビルの屋上へと消えて行った。
「言い逃げか。フン、まだまだ子供だな」
新八はそう言って鼻で笑うも、何一つ楽しいなどと思えなかった。どこか満たされない。こんな日は酒でも飲み憂さを晴らすかと、新八はスナックお登勢を目指したのだった。
まだ日暮れ前。スナックお登勢の看板にも明かりは灯っていない。しかし、構わないと新八は暖簾をくぐった。
戸を開ければ、仕込み中のお登勢がこちらを見ずに言う。
「なんだい。待ちきれず、会いに来てくれたのかい」
新八は愛想笑いすらもせず、カウンター席へと座った。
「酒をくれ」
すると、カウンターの向こう側で忙しそうにしていたお登勢が顔を上げた。
「ヤケ酒はよしてくれよ。こんな時代くらい笑って飲みなあ」
そう言ってお登勢はグラスに日本酒を注ぐと、新八の前に置いた。
新八はヤケ酒のつもりではなかったが、もしかするとそうなのかもしれないと、思ったよりも自分がダメージを受けていることを知った。
全く平気なわけではない。神楽との不仲の話だ。ただ、譲れないものが互いに重なり取り合いにはなっているが、想いが同じである事は分かっているのだ。街を守りたい。やり方さえ間違えなければ、きっと今も新八と神楽は並んでいる筈だったのだろう。
しかし、今となっては何を言っても遅かった。時間が経てば経つほどに距離は開いていくのだ。ほんの数年前は共に笑っていたと言うのに。
新八は何を考えているんだと頭を振り、考えを消してしまうと酒をあおった。
「そうだ。あんたに一つ話があるんだ」
お登勢は煙草を口に咥えると、火をつけた。
新八はそちらへと顔を向けてお登勢の言葉を待った。
「確かな情報じゃないんだけどね、銀時が立ち寄ったと思われる宿が見つかってね」
「それは本当か?」
お登勢は、背後の棚に背をもたれると目を閉じた。
「飽くまでも噂さ。ただ、その宿は私も知ってる宿でね。あぁ、場所なら分かるよ」
お登勢は新八に簡単な地図と住所を書いたメモを渡すと、ニヤリと口元を緩めた。
「辺鄙な所だからね、クマでも出るかも知れないよ。行くのかい?」
「クマくらいなんだ。白詛に比べれば何てこともない」
新八はお登勢から受け取ったメモを見ると、口元を袖で拭った。
随分と山の奥だな……
住所を見れば、かぶき町からは随分と離れており、公共交通機関がマヒしている今の状況では、徒歩くらいしか移動手段がなかった。
「あんた、まさか今から行くなんて馬鹿なこと言わないだろうね」
「心配するな。俺の足だと今夜中に着く」
そう言って新八は立ち上がると、懐から小銭を出した。だが、お登勢はそれを新八の手に握らせると、煙草の煙を吐き出した。
「宿代がいるだろう? さすがに泊まらずに帰るなんて、相手に失礼さ」
新八は宿に泊まるつもりはなかったが、小銭を懐へとしまうと店を後にした。
「お登勢様、上手く行くでしょうか?」
店の奥から出て来たカラクリのたまは、どこか不安そうに見える表情をしていた。するとお登勢は、さぁねと言ってニヤリと笑った。
既に日は落ち、峠を歩く新八は、ずっと先の方に見える明かりを頼りに道を進んだ。
新八が目指す宿は小さく古い旅館なのだが、温泉が引かれており、食事も美味いと隠れた名所のようであった。
たまには羽を伸ばすのも悪くないだろうと、そんな事をボンヤリと考え歩いていた。
「あと2キロくらいか」
そう呟いた時だった。背後の茂みからガサリと物音が聞こえた。額に汗が滲む。
まさか、クマか!?
新八は振り返ることが出来ずその場で固まってしまうと、再び茂みから物音が聞こえた。
これは間違いない。
新八は腰の得物へと手を掛けたが、この暗闇では不利だと判断した。そこで急に大声で叫ぶと、宿を目指して全速力で走ったのだった。
「クマぁあああああ!」
背後の物音は確実に足音へと変わり、新八は顔面蒼白で闇を突き抜けた。
「ぎゃああああああ!」
ところが背後のクマは、何やら人間のような叫び声を上げている。
新八は振り返りこそしなかったが、その声がどこか聞き覚えのあるものだと冷静に考えていた。
クマじゃないのか?
その考えが確信に変わったのは、自分を追い抜く人の姿を見た時だった。
暗闇に僅かに浮かび上がる長い髪。それは闇の中でも鮮やかに、美しくなびいていた。
まさか――神楽か!?
ようやく宿に着いた新八は、自分の目の前で玄関の柱によじ登っている人物に声をかけた。
「ややこしいわッ! クマかと思っただろッ!」
「は、はぁ? ってか、なんで新八がいるのよ!」
そうやって二人が騒いでいると、宿の中から一人の年老いた婦人が出て来た。シワだらけの顔に白い髪。だが、にこやかな表情がどこかホッとさせるのだった。
「あらあら、どうなさいましたかね?」
神楽はするすると柱から下りて来ると、身なりを整えた。
「実は、ちょっと人を捜していて」
神楽がそう言うと、新八が待ったをかけた。
「貴様、その情報どこで聞いた? まさか、盗み聞きか?」
「あんたこそ、どこで聞いたのよ! 私はたまからここに銀ちゃんがって!」
そうやって言い争う二人をたしなめるように、老婦人が言った。
「お腹が空いてるから喧嘩もするんだろう。ほら、早く上がんなさい」
グゥと腹の虫が鳴いた二人は顔を真っ赤にすると、老婦人の後に続いて宿へと入ったのだった。
小さな和室に通された二人は、運ばれて来たお膳に目を輝かせた。だが、新八はすぐに無表情になると、黙って食事をするのだった。
それは神楽も同じであった。始めこそは嬉しそうだったものの、新八と二人だけでの食事にその表情を曇らせた。
静かな食事風景。古い客室ではあったが清掃が行き届いており、殺風景な部屋ではあったが居心地は悪くなかった。食事もそうだ。山の幸をふんだんに使っており、かぶき町では味わえないものであった。だが、今日の目的は旅行ではない。
新八は食事を終えると箸を置き、部屋を出た。神楽はと言うと、大きな掃き出し窓の外を眺めていたが、神楽に声をかけるわけでもなく、さっきの老婦人を捜したのだった。
新八は食事をした二階の部屋から下りると、玄関の脇にある従業員控え室と書かれた部屋の前に立った。そして、ノックをして部屋へ入ろうかと思っていた時だった。
「なに! またなのかい!」
先ほどの老婦人と思われる声が聞こえた。
「今度は23頭もクマ牧場から脱走とはね」
聞こえた話だけで考えてみると、23頭と言うのは動物の数で、クマ牧場からの脱走となれば――新八は額に汗を滲ませた。
「今いる客は泊まらず帰るだろうから、帰り道で囮にさせるかねぇ」
その言葉に更に新八の汗は噴き出した。
なんて日に来てしまったのか。いや、なんて旅館に泊まってしまったのか。
しかし、その後冗談だよと笑う老婦人の声に、少しは胸を撫で下ろした。
「あら、あら」
電話を切り、控え室から出て来た老婦人は新八に驚いた顔をするも、すぐににっこりと笑った。
「さぁ、そろそろ帰られますか?」
新八は首をブンブンと横に振った。するとそこに二階から神楽が下りて来た。
「ねぇ、お婆さん。この人、ここに来たことないかしら?」
神楽は新八を押し退けると老婦人の正面に立ち、銀時の写真を見せた。
「……悪いけど知らないねぇ」
「そう」
神楽は寂しそうな顔でそう呟くと、玄関に下りてブーツを履いた。
「食事、美味しかったわ。ありがとう」
そう言って玄関の戸を開けようとした時だった。ドカンと大きな発砲音が外から聞こえてきた。
「な、なんの音!?」
すると、老婦人は玄関の戸から顔を出して外を見渡した。
「今夜は戦争だよ。対熊迎撃ミサイルを配置したのさ。この旅館は安全だけどね、一歩外へ出れば死神とダンスを踊るハメになるよ」
「クマってどういう事?」
何も知らない神楽は老婦人を大きな目で見ていた。それを見て新八は眼鏡のズレを直すと、先ほど聞こえてきた話について老婦人に尋ねたのだった。
「クマが逃げたと言う話が聞こえたが」
「あぁ、今夜クマ牧場からクマが脱走したんだよ。帰りたきゃどうぞ帰って下さいね。でも、わたしゃ責任取らないからね」
新八は老婦人の言葉に今夜は何が何でもここに泊まることを決めた。それは神楽も同じようで、ブーツを脱ぐと再び室内へと入ったのだった。
「今夜、泊まらせてもらいたいんだが」
「わ、私も」
すると老婦人はやはり柔らかな笑みを携えて言った。
「えぇ、えぇ。ありがとうございますね。では、お部屋は先ほどの部屋で良かったですか?」
「あぁ、構わない」
新八がそう答えると神楽が眉間にシワを寄せた。だが、特に何を言うこともなく、老婦人に続いて二人は階段を上がったのだった。
片付けられたお膳。一つの部屋に敷かれた二組の布団。隣に並ぶ枕の距離。
新八と神楽はそれを信じられないと言った顔で見下ろしていた。
「ちょっと待て」
新八がそう言えば、神楽も青ざめた顔を動かすことなく答える。
「何これ、なんで二組も布団があるのよ? 私の寝相が悪そうだって意味?」
老婦人はイタズラっ子のような顔で新八を見た。そして、何故だか親指を立ててウィンクをばっちりとした。
ち、違う! ババア! 勘違いだッ!
しかし、今夜はこの部屋しか空きがないと老婦人はぬかした。
新八は納得いかなかったが、神楽は諦めたのか浴衣を持つと、宿自慢の温泉へと行ってしまった。
残った新八は、神楽と二人だけで過ごすと言う現実に動揺を隠せずにいた。
何があるわけでもないが、どうやって過ごせと言うのか。争わずにいられるのか。生きて朝を迎えられるのか。
そんな事を考えている筈なのに、湯上りの火照る肌や伏せられた長いまつ毛。浴衣からチラリと覗く白い脚。そんなものが自分の隣で眠っている姿を想像してしまった。
「疲れているだけだ」
新八は額を手で押さえると、自分も湯に浸かろうと部屋から出たのだった。
大浴場とは言えないが、それでも一人だと充分に広い湯船に浸かり、新八は疲れを癒した。
この宿の外にクマが23頭も潜んでいるだとか、銀時の後継者のことだとか、蝕まれる地球だとか。そんな事がどうでも良い程に頭の中を空っぽにした。
すると、意地を張って神楽とぶつかり合っている事がバカバカしく思えた。だからと言って部屋に戻って仲良くすると言う選択肢はなかった。仲良くするには、距離があまりにも離れ過ぎていたのだ。仲良くどころか、今は普通に接することすら難しくなっていた。
風呂から上がった新八は浴衣に着替えると、神楽が居るであろう部屋へと戻った。
気が重い。どんな態度でいれば良いのか。
新八は部屋の引き戸に手をかけたまま動けないでいた。
何か言われるのは目に見えている。譬えば、廊下で寝ろだとか外に布団を移せだとか。そんな事を言われたら言い返さずにいられない。それはよく分かっていた。
面倒な事になったな。
新八は銀時の情報も得られなかった上に神楽と過ごさなければならないなど、とんだ災難だと思っていた。だが、今夜だけの辛抱だと自分に言い聞かせると、遂に神楽の居る部屋へと踏み込んだのだった。
部屋に入ると、神楽は掃き出し窓から暗い外の景色をじっと眺めていた。その手には飲み物の入った缶が握られており、思いの外リラックスしているようだった。
新八はそんな神楽に特に声を掛ける事もなく、出入口に近い方の布団の上に胡座をかいた。すると、神楽が誰に話すわけでもなく呟いた。
「露天風呂?」
そう言って掃き出し窓近くの壁にあるスイッチを押せば、窓の外にあった小さな露天風呂がライトアップされた。
「うそ! スゴい! 入りたい!」
やや興奮気味に話した神楽は窓を開けると、そのまま外へと出てしまった。
新八は神楽の独り言を思い出すと、慌てて窓に背を向けた。窓の向こうには、きっと裸の神楽がいる筈。
新八は余計な事を考える前に眠ってしまおうと、布団に頭から潜った。しかしそうすると辺りが静かなせいか、水の跳ねる音が鮮明に聞こえてくる。
一体、何を考えて――
そう思った時だった。その通り、何を考えているのか神楽のやや上機嫌な声が新八を呼んだ。
「ねぇ、新八。ちょっとこっち来てよ。すごいから」
何がすごいのか。お前の体か!?
新八が神楽の声を無視して目を閉じるも、神楽の呼びかけは続く。
「新八、良いから来て。ねぇ」
甘ったるい媚びるような声。
新八は何かの罠ではないかと勘繰っていた。だが、珍しく神楽がそんな声を出すものだから、新八は気になって眠れなかった。
「うるさい! 貴様はさっきから何を――」
そう言って堪りかねて窓まで来たは良いが、神楽が裸である事を思い出すと下を向きながら窓の外に向かって言った。
「き、貴様はさっきから何を言っている。お、俺は入らないぞ」
すると神楽が新八に近付いた。思わず後退りをした新八だったが、神楽は浴衣を脱いでなどおらず、ジトっとした目で新八を見ていた。
「何よ? 裸だと思ったわけ? まぁ、いいわ。それより、こっち」
神楽は新八の腕を取ると、湯船のフチに立って上を指差した。
「何があるって言うんだ」
新八は眼鏡を指で押し上げると、神楽の指差す天を仰いだ。
「すごいでしょ」
そこには息を飲むような無数の星々が煌めいていた。荒廃しているとは言え、江戸の賑やかな街では見ることの出来ない満点の空。
新八の胸の鼓動が僅かに速まった。それはこの光景に感動しているからなのか、それとも神楽に掴まれている腕のせいか。
神楽の空を見上げる横顔に新八は目をやると、そこにはどれくらいか振りに見る穏やかな瞳があった。それが懐かしくて、ずっと見ていたいような気分になって――新八はそんな事を思う自分に少々苛立った。そして奥歯を強く噛み締めた。
そのせいか神楽の顔がこちらを向いた。
「何?」
そう言った神楽の座ったような目と赤い顔に、新八はある事に気がついた。神楽が先ほどから飲んでいる飲み物、それがアルコール飲料だということに。
「貴様、未成年だろ」
新八は神楽の手からアルコールの入った缶を奪い取ろうとした。
「ちょっと――」
突然の新八の行動に神楽の足元がフラつき、バランスを崩した神楽は新八もろとも露天風呂の中へと落ちてしまった。
「何やってんだよッッ!」
思わずそう叫んだ新八は、頭からずぶ濡れになった神楽と目があった。
湯に濡れた浴衣が透けて――
「貴様は待ってろ」
「な、何よ?」
新八は急いで部屋へ戻ると、替えの浴衣とタオルを持って神楽の元へと戻った。それを神楽に渡すと再度新八は部屋へと戻った。そして自分も濡れてしまった浴衣を脱ぎ、タオルで体を拭いた。だが、残念な事に下着まで濡れてしまっていた。さすがにそのまま身に付けている事は出来ず、干して乾くのを待つしかなかった。仕方なく新八は素肌の上に直接浴衣を着た。
心許ない。しかし、眠ってしまえば良いだけだ。
新八はそんな格好のまま布団へと入り眼鏡を外すと、神楽の布団側に背を向けて目を瞑った。
それからしばらくして、神楽が部屋に戻って来る音が聞こえ、すぐ背後の布団に人の気配を感じた。
新八は少し肌寒さを覚えたが、布団を頭から被ると体を僅かに丸めた。
「あれがお酒だって知らなかったの。本当だから」
やけに近い距離からそんな言葉が聞こえて来て、新八は思わず目を開けた。
すぐ背後にいるのか?
確かに広くない部屋ではあるが、まるで耳元で話しをされているような距離感であった。
振り返ろうとも思ったが、本当に触れられるくらい近くにいれば厄介だと、新八は再び目を閉じた。
「だから、何だ? 早く寝ろ」
新八がそうやって冷たく言い放つと、神楽はガサガサと布団の中で動いた。
その動きが気になった新八はまた目を開けると、神楽へと意識を集中させた。
「ねぇ、銀ちゃんは本当にここに来なかったと思う?」
そんな突拍子もない質問に新八は顔をしかめると、さぁなと答えた。だが、新八はその質問について心の中で考えていた。
あんな星空が見られるのであれば、ここに来る価値は充分にある。
偽ることのない偉大な自然を前にすれば、何もかもを削ぎ落とし、必要なものだけを見つめる事が出来るような気がしていた。銀時にとってそれが“姿を消す”と言う選択だったのかもしれない。そう覚悟を決めさせたのかもしれない。そんな事を新八は考えていた。
「私は銀ちゃんがこの星空を見たような気がするの。まぁ、何と無くだけど」
「……そうか」
少しだけ意地を張るのをやめた新八は、そうやって答えるのが精一杯であった。優しい言葉はかけられない。かけ方がもう分からなくなっていたのだ。銀時の後継者には自分こそが相応しいと神楽を敵視する内に、驚く程のスピードで感情が剥がれ落ちて、捨て去って、失ってしまいそうなのだ。そのせいで昔は簡単にやってのけた事が、今では随分と難しい事になっていた。ただ、口角を上げて微笑むだけのことなのに。
勝手に姿を消した銀時と違い、神楽は――新八が自分から距離を置いたのだ。その事が分かっているだけに、今更手を伸ばすことは出来ないのであった。
しかし、神楽にそんな気持ちが伝わったのか、新八の背中に手のひらがそっと置かれた。僅かに温かくなった体に脈が速まる。
新八は目を閉じたまま神楽の温もりを感じると、ほんの少しだけ口角を上げてみた。それが“笑み”かと言われると判断は難しいが、今の新八が見せる精一杯の笑顔であった。
神楽にその表情を見せる事はなかったが、反対にいつものようにトゲトゲしい言葉を投げつける事もなかった。すると、背中に触れているだけだった神楽の手が、新八の胸へと回って来たのだった。体を包むような神楽の熱が新八の呼吸を大きく乱す。
「貴様は赤ん坊か」
そんな事を言いはしたが、背中に感じる神楽の体がすっかり大人であると知っていた。
「……あのバカ、本当にどこ行ったんだか」
神楽はそう呟くと、新八を抱く腕に力を加えた。それが神楽の寂しさを表しているようで、新八は胸がつまった。
寂しい気持は自分も同じだ。だが、そこに存在する想いの形が自分と神楽では僅かに違うのではないかと、予てから疑問に思っていたのだ。それが今夜、確信に変わろうとしていた。
自分を抱く神楽の腕が本当は何を求めているのか。経験がなくとも新八には分かっていた。
“まやかしの夜を求めている”
なら、他にも男はいるだろう。
新八は不思議と冷静であった。体は熱く、心も震えてはいたが、相手が神楽だからか、それとも同じ痛みを持つ者だからか、この状況にも拘らず頭は冴えていた。
正常な思考は、正当な答えを導き出す。
こんな事をしても誰も救われない。
そう判断を下し、胸に回る腕を解くのだ。
「……初めからこうしておけば、余計な争いをする事もなかっただろう」
新八はそう言って胸に回る腕を解くと、神楽の方へと体の向きを変えた。
そこには目を細め、新八を眺める神楽がいた。
「どういう意味?」
それは自分が知りたいことだった。意味などあってないのだ。とにかく何をしても、何もしなくても救われないのなら、新八は救われるなどと期待などせずに、ただ狂ってみたかった。
新八はこちらを見る神楽の両目を片手で覆ってしまうと、静かに答えた。
「こういう事だ」
そうやって大人振った新八は、神楽の唇に自分の唇を重ねた。それはぶつかるような少し乱暴で優しいものではなかったが、新八の精一杯のキスであった。しかし、すぐに唇を離した新八は、神楽の目から手を退けるとやや赤い顔で神楽を見た。すると、神楽も同じような顔で新八を見ていた。
「い、意味分かんないし。こんなので……こんなので……」
神楽は新八の頬にそっと手を置くと、小さな声で囁いた。
「こんなんじゃ、全然足りないわ」
その言葉が新八の心臓を貫くと、神楽の唇が再び熱い唇へと重なった。
どちらともなく目を閉じると、先ほどよりも長く、優しいキスをした。
新八はそんなつもりは全くなかった。優しいキスをするなど――乱暴に神楽の性にしか興味がないような、いやらしく雑な事をしてやろうと思っていた。そうすれば二度と争いすら起こらない筈だ。しかし、そんな策略は神楽を目の当たりにすると、何一つ遂行されなかった。
触れた肌は柔らかく、簡単に傷がついてしまいそうだ。大切にしたい、優しくしてあげたい。そんな気持がふつふつと湧き上がって来た。何よりも神楽の花のような香りが、新八の毒気を抜いてしまったのだ。
ただ、ただ愛しい。
新八はいつの間にか神楽の上に覆いかぶさると、神楽の唇に夢中になっていた。神楽が誰を求めているだとか、後継者は誰だとか。そういう事は今だけは頭から抜けていた。いや、もうどうでも良いと思っていた。神楽もきっと同じだろう。
新八は一度神楽から離れると、まだ寂しそうに見える瞳を見下ろした。互いに言葉は無いが、言いたい事は分かっていた。
“今夜だけは、傷を舐め合いましょう”
それが人から見ればどうだとか、危なげな事だとは分かっていたが、もう幼いとは言えない熱をぶつけ合った。
寂しさや、互い思う気持ち。それを二人は肌で感じた。だが、これもこの場限りだ。自堕落になってしまう事を恐れたが故、二人はまた別の道を歩んだのだった。
翌日、宿から戻った新八はスナックお登勢を訪れた。店に入れば奥のカウンター席に座る女の姿を瞳に映した。神楽だ。しかし、何か言うわけでもなく新八もカウンター席に腰掛けると、カウンターの中で煙草を吸っているお登勢に酒を頼んだ。
「珍しい事もあるもんだね」
お登勢は知ってか知らずかそんな事を口にした。
あの宿に神楽と新八の二人を向かわせたのはお登勢の策略だったのか。こうなる事を予測しての計画だったのか。それを確認することはしなかったが、どこか嬉しそうなお登勢の顔にその答えが分かった気がした。
「それで、銀時の情報は得られたのかい?」
新八も神楽も首を横に振ると、同じ動きに思わず顔を見合わせた。
「ひどい顔!」
「貴様こそなんだ、その顔は」
互いの目の下に出来たクマに二人は顔を歪めると、それを遠巻きに見ていたたまが口を挟んだ。
「あの宿はクマが出ると有名だと聞きました」
「クマが出来るの間違いじゃないのかい?」
お登勢はそう言うとニヤリと嫌な笑い方をした。
それを見た神楽と新八は途端に顔を真っ赤にすると、慌てて店から出て行ったのだった。
2014/05/09
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