姉上が亡くなった。そこからだ。俺の感情が少しだけ誰かの痛みに敏感になったのは。
それまで目の前で振った女が泣こうが、喧嘩した不良が喚こうが、何一つ自分には関係がなかった。それを俺は『当たり前』だと思って、何の疑いもなく過ごしていた。
でも、姉上が亡くなって、途端に隣で早弁をしてるバカなチャイナ娘だとか、漫画雑誌片手に教壇に立っている教師だとか、マヨネーズまみれのツレだとか。その他諸々が急に気になるようになった。
「はーい、じゃあ沖田くん。今の先生の話を復唱してくださーい」
担任の坂田がそう言ったから、俺は机に頬杖をつきながら答えてやった。
「夏休みはハメを外しやすいので、必ずコンドームを持参するように」
そこまで言って何故か隣の席のチャイナ娘――――――神楽から平手が飛んできた。
「先生の話ちゃんと聞いてろヨ!」
「なら、なんて言ってたかテメーは聞いてたのかよ」
「当たり前アル!」
神楽は誇らしげにその……薄い胸を張るとどこか腹の立つ顔で言った。
「暑いからってスイカとかアイス食べ過ぎて腹下さないようにって言ってたアル!」
だが、神楽の頭に漫画雑誌が叩き込まれた。
「お前らなんで聞いてねぇんだよ! いいか? 今年は宿題がないけど、遊んで過ごすんじゃねーよってな……」
それを聞き改めて実感した。高校生活最後の夏休みである、と。この夏が過ぎて、秋が来て、そして冬を迎えればもう卒業だ。そうなりゃあ、こんな騒がしい隣の女ともようやく別れられる。
「何アルカ? ジロジロ見てんじゃねーヨ」
頬に米粒をつけながら色気の欠片もなくそう言った神楽に、俺は眉をひそめた。
「なら、先にテメーが見るのをやめろ」
「はぁ!? な、何をッ!? お前が見てるから見たんダロ! ちょっと表出ろやゴルァ!」
神楽がそう言って啖呵を切った。俺も売られた喧嘩だ、買わずにはいられねぇ。神楽が音を立てて椅子から立ち上がれば、俺も遅れをとることなく戦闘に備える。そしてすぐに奴の右足が飛んでくるが、それを軽くかわせば俺も蹴りこむ。気付けば机は倒れ、鞄は落ち、中身が散乱していた。いつの間にか俺らの背後には銀八の姿があって――――――
「いい加減にしろやァァアア! 最後の最後までお前ら一体なんなのッ!」
その後、銀八という邪魔が入ったせいで暴力チャイナ娘とは決着つかないまま高校生活最後の一学期が終わった。
その日の夜は、近藤さん家でゲームして、飯食って帰ってきたのが22時過ぎ。そこから風呂に入って、そろそろ寝ようかと思ったのが…………深夜1時を回っていた。だが、明日からは休みで別に眠くもない。月刊Mっ娘倶楽部でも読むかと思いながら、机の上に置きっぱなしになっている鞄が目に入った。
「あっ、すっかり委員会の予定表見るの忘れてたな」
そんな事を呟きながら鞄を開けた。いつももらった予定表はテキトーに鞄に突っ込んではいるが、失くしたことは一度もなかった。だが、どう言うわけか入ってない。代わりに空の弁当箱とうさぎ柄のポーチ。見覚えのある筆箱、それと《神楽》と名前の書かれた銀八との連絡ノートが出てきた。そこでようやく俺はこの鞄が誰のものであるのかに気が付いた。
「……あいつ、まさか気付いてねえのか?」
やや焦る。そう言えば携帯電話は充電がなくなって電源が切れたままだ。俺はベッドに投げていた携帯電話を充電すると急いで電源を入れた。
「やっちまった…………」
案の定、電源が切れてる間にメールが7件、電話が12件掛かってきていた。普段、連絡なんざ取ることもねえが、今日だけは特殊だと俺は急いで電話をかけ直した。だが、もう深夜だ。コール音が5回、6回と鳴る。出る気配はない。仕方ないと電話を切ると、今度はメールを送ってみた。
《人の鞄、間違って持って帰っただろ》
きっと明日には連絡が返って来るだろう。そう思って今夜はもう寝ようと思った時だった。携帯電話にメール着信を知らせるランプが点滅した。見れば神楽からで、俺は何故か一呼吸置くと来たメールを開いた。
《今すぐ返せバカサド》
思わず口角が上がった。俺はすぐに返信した。
《家教えろ》
そこから4、5分経ってメールに地図が添付されてきた。確認すれば、俺ん家から近い私鉄の踏切が赤丸で囲まれている。つまりここまで来いって意味だろう。神楽の家がどこにあるか知らなかったが、俺はスグにでも出るつもりで鞄を持った。財布と自転車の鍵、そして携帯電話を穿いているハーフパンツのポケットに突っ込むと――――――そこでまた携帯電話が震えて、メール着信を知らせた。
《連絡ノート、見てないだろーな》
その文字に俺の好奇心が疼いた。そう言えば神楽が担任と交換している連絡ノートが鞄には入っている。俺は連絡ノートなんて、その日の土方さんの様子を書き殴るくらいにしか使ってないが、神楽は一体何を書いてるのか。言われて初めて気になった。アイツの頭の中とか、胸の内。大方、食いもんのことだろうとは想像出来るが…………
気づけば鞄を開けて俺はノートを手にしていた。だが、ページは捲れない。中を開けて見ることはさすがに躊躇う。それに見たところで別に楽しいわけでもない。俺は手に持っているノートを鞄にしまおうとして…………滑っちまった。ノートが床に落ち、ページが捲れ、そして神楽が書いた不格好な日本語が目に入って来た。
《学校は楽しい。だけど、家に帰るとさびしい。パピーもいない、兄ちゃんもいない。マミーもいない》
そんな一文が読み取れた。これは不可抗力で、俺が望んで見たわけじゃない。だが、胸のざわつきが収まらない。
急いでノートを鞄に突っ込むと俺は生温い風の中、自転車を飛ばした。
深夜の住宅街を抜けて、坂を僅かに上がって、そして薄暗い踏切に着いた。神楽が指定した場所だ。俺は自転車を降りて手で押すと、周囲を見回した。だが、誰の姿も見当たらない。そこで俺は着いたことをメールで知らせると、神楽から返信が来た。
《もう見えてる》
どこから来るのか。なんとなく気配を感じて踏切の向こう側を目を細めて見れば、一人の女が携帯電話の明かりに照らされ、暗闇に浮かび上がっていた。
見たことのない肩まで下ろした髪と、寝間着なのかラフなTシャツとショートパンツ。あの賑やかで騒がしいチャイナ娘にはとても見えなかった。だが、踏切のスグ手前まで来たところで確信した。俺を睨みつける顔がいつも隣で見ていたものと同じで、間違いなく神楽であると。
「お前! なんで電話もメールも出なかったネ! こんな時間まで起きて待ってたアル!」
「電源が切れてたんでィ。仕方ねーだろ」
神楽は踏切を渡ってくると俺に向かって鞄をぶん投げた。それがうまい具合に自転車の潰れたカゴに収まった。
「ほら、テメーの鞄…………」
そう言って渡そうとして、俺は肩に鞄を掛けた。そして自転車を漕いで神楽が来た方角へ逃げた。
「沖田ッ! ゴルァ! 返せよッ!」
想像通りに神楽は俺を全速力で追い駆けて来ると、俺は自転車から降りて、掴みかかろうとする手を受け止めた。
なんとなくこいつが一人で過ごしている家を見てみたくなっちまった。どんな家で寂しいと思って過ごしてるのか、そんな事が知りたくなった。だが、こいつにそれを言えばノートを見たことがバレる。俺は少し考えてから神楽に言った。
「家まで…………送ってやる」
すると見えている顔が大きく歪んだ。俺も自分で間違った事を言ったとは分かってた。だが、訂正する気はない。多少は今のこいつの姿に『女の子』であることも感じていた。
「テメーのその貧相な体に欲情する奴がいねーとも限らねぇだろ」
「誰が貧相だバカヤロー!」
そう言って俺に殴りかかるかと思ったが、神楽は自転車の荷台に飛び乗ると俺の足を蹴りやがった。
「ほら、チンタラしてないで早く漕げヨ」
俺は自転車に跨ると、背中に人の気配を久々に感じて夜風を切った。
背中の向こうの熱に懐かしさを覚える。いつでも背後には、俺を世話して回る姉上の姿があった。こうして自転車でよく買い物にも出かけたし、駅まで迎えに行ってその帰り道に乗せた事もあった。俺にはそれが当たり前の日々で、いつか失うものだと気付きもしなかった。そして、はっきりとは分からないが、あの戻らない日々が俺の行く先を照らしていた。今はそれを取り戻そうと暗闇の中、一人もがいて走ってる気分だ。
自転車は緩やかな坂を下って、神楽が声を上げる。
「待て待て、通り過ぎたアル!」
神楽に言われるがまま俺は自転車を走らせると、一軒の大きな戸建ての前に着いた。
「テメーみたいなのが後5人は住んでそうだな」
「かもナ…………」
俺の背中で呟く声にいつもの喧しさは感じられなかった。下らないと分かっていながらこんな事を言ったのは、もしかすると『そうじゃない』なんてコイツが否定するんじゃねーか、なんて事を思ったからだ。否定して、それで…………期待した。寂しいなんて口にするんじゃねえかって。
静けさが俺らを取り巻く。深夜の住宅街なんて静まり返ってるのが普通だが、背中の神楽とそんな環境に身を置いていることは、俺にとって普通じゃなかった。そのせいか普段じゃ思うことすらない言葉を声に出していた。
「たまに感じねェか? 世の中ってのは不公平だってふうに」
こんな話をこいつ相手に話すなど、どうかしてるのかも知れねぇが、俺はそれを恥だとか馬鹿げてるだとか、今だけは感じなかった。寒々しさを感じるほど冷えきった家。それを前にすると背中の向こうにいる神楽が、ちっぽけで弱い存在に思えた。
「こんなデカい家に住んでる奴もいれば、狭いアパートですし詰め状態で暮らしてる奴らもいる。だだっ広い空間与えられたって、一人じゃ持て余して無駄になんのになァ」
「フンッ、無駄にするのは脳がない人間だけネ」
神楽は自転車の荷台から降りると鞄をひったくって門扉まで駆けた。そして背を向けたまま頭上を見上げ何かを見つめた。それに釣られて俺まで何も見えない空を仰ぐ。だが、本当に何も見えない。神楽には一体何が見えてるのか。
「私は違うアル。待っていれば誰か帰ってくるネ。信じて待っていれば絶対、ちゃんと…………」
そんな言葉を言っておきながら、見えている華奢な肩は震えていた。まるで『寂しい』なんて言うように。それを俺はただしかめっ面で見ているしか出来なかった。どうしようもなく苦しく感じても、それを見ている事しか無理なんだ。そんな事を思って見ていると、不意に神楽が振り返った。
「なんて顔してんダヨ。そんなに寂しいなら…………」
光量の少ない電灯が神楽の白い顔を照らす。それが地面に向けられて…………
震える声が聞こえた。
「うち、上がって行くアルカ?」
その意味を俺は知らない。ただ、それでも分かる。寂しいのは俺じゃなくお前で、泣き出したいのはお前じゃなく俺だった。答えに詰まる。こんな時にどんな選択が正しいのか。俺はやっぱりガキで、正解とか間違いだとか、どうしたいだとか全部が分からなかった。
「…………いや、家帰って寝る」
俺はそれだけ言い残すと神楽に背を向けて自転車を漕いだ。家までひたすら全速力で。
その晩、一睡も出来なかった。寝るなんて言って帰って……いや、逃げ帰って来たが、興奮してるのか少しも眠れない。断ったことへの罪悪感、踏み出せなかった自分への軽蔑心。感情が夜明け前の空みたいに色んな色で混ざり合って、俺は何も見えなくなった。
だからこそ知りたい。見ていたい。あいつの心の内側を。なんであんなふうに誘ったのか、なんであんな顔してたのか。全部知ることが出来たらその時は俺も――――――
足元を照らす光が見つけられるような気がした。
あれから数週間が経った。神楽とは会ってもなければ、連絡を取ることもない。どうして過ごしてるかなど俺の耳には入って来なかった。
俺は部屋で落語を聞きながら、一つ新しい小噺を覚えてる時だった。携帯電話にメールが届いた。神楽ではない事だけは分かっていた。用もないのにメールを送ってくるタイプじゃねーから……
メールを開けば予想通り、近藤さんからのものだった。
《スイカを買って来てくれ!》
全く意味のわからんメールでィ。俺はとりあえず理由を尋ねた。するとすぐに返信は来た。
《お妙さんがスイカ割りをしたいそうだ》
ならテメーで買いに行けと思わず送ると、またすぐに返信が来た。だがそれは文章じゃなく写真が添付されていて…………そこには、地面に埋まり頭だけを出した近藤さんの姿があった。その背後には何故か微笑んでいる姐さんと柳生九兵衛の姿。俺は面倒くせえと思ったが財布を持つと仕方がなく、バカ共にスイカを買って届けに行った。
スイカを見ると思い出す。姉上が病床で言った一言。
『今年の夏は、スイカをいっぱい食べたいな』
そう言って笑っている姉上の顔を俺は見ることが出来なかった。小刻みに震える細い手。もうすぐで季節は夏だと言うのに、青白い顔がじきやってくる終焉を俺に叩きつけた。強い日差しがカーテンの隙間から溢れ入り、部屋をくっきり明と暗に分ける。姉上の横たわるベッドには光が溢れ、俺の立つ冷たい床は闇に染まる。言えなかった。姉上がこの夏を越せないこと。もう二度とスイカを口にする事が出来ないこと。もう一生、笑い合うことが出来ないこと。全てを分かっていた。なのに俺はただ作られた薄っぺらい笑顔だけを貼り付けて、こう言うしかなかった。
「ああ、それはいいや」
それが姉上との最後の会話となった。
俺は家に戻ると、スーパーで数切れだけのスイカを買って仏壇に供えた。
「今年は甘いみてーなんで、タバスコ一緒に供えときます」
今更、返事のない姉上の写真に語りかけても遅いことは分かってる。なんであの日、俺は言えなかったのか。そんな後悔だけはいつまでも消えない。
俺は仏壇の前で胡座を掻くと、自分の分として取っておいたスイカに齧り付いた。
「…………姉上、実は話があるんでさァ」
写真の中の姉上は俺をいつかのように微笑んで見つめていた。
「俺はどうも女の《ここん中》が少しも理解出来ねーみたいで……」
胸を軽く小突くと、思いのほか大きな痛みが走った。
「気になる女が俺を誘ったってのに、バカみたいに逃げ帰って来ちまった。あっ、いや、気になるって言うのは語弊があらァ。ほっとけねーって、それくらいの……」
あの夜から、俺の頭ン中は神楽一色だ。認めてもいい。気になってることは。ただそれが《惚れた腫れた》なのかと訊かれると何とも答えられない。
あいつが俺に手を伸ばした事に戸惑いと衝撃、更にそこに恐怖があったことは確かだ。だが、何も言わずに背を向けた俺は、もう二度とあいつに近付けないような気がしていた。己で招いたことだが、我儘にも『嫌だ』と思う自分がいて、だからと言ってどうすれば良いのか…………俺はスイカの種を飲み込むと姉上の顔を見た。
まさかもう二度と会えなくなるとは思わなかった。いつか来る終焉が明日だとは考えたくもなかった。俺はあの日の病室で寄り添えなかった自分の弱さを心底軽蔑した。なら、今やることは一つだ。あいつに会って、それで……それで…………どうする?
あいつはハッキリと俺に言わなかったが、あんな時間に冗談とは思えない顔で誘ったんだ。そこに《惚れた腫れた》がなくとも、寂しいとは思っていたはずだ。それだけでも分かれば充分だ。だが、どう切り出す? 会いたい、なんてある日突然俺が言えば、あいつは気味悪がるだろう。そうは言っても他にきっかけが思いつかない。だからと言ってこのまま避け続けて、また後悔しても良いなんて考えには辿り着かない。あの痛みが無駄になっちまうから。それだけは亡くなった姉上に《しない》と誓った。もう俺は嫌なんだ。『あの時、ああすれば良かった』そんな思いを積み重ねていくことは。
スイカを食い終わると俺は携帯電話を取り出して、神楽に連絡を取ろうと思った。メールでも送って呼び出せないかと、そんなことを考えた。その後のことは、行き当たりばったりだ。あいつにとって、もう俺が必要なくなっていたとしても、それでも良いと素直に思えた。
「あー、でもなんて打つ? 『今日の夜、暇か?』それでいくか? いや、ダメだ。軽過ぎる……」
落ち着くことが出来ず仏壇の前をうろうろ歩き回ってると、突然仏壇横に積んだままになっていた古い雑誌の束が崩れた。
「盆前に片付けるつもりしてたが、すっかり頭から抜け落ちてたな」
俺は携帯電話片手に崩れた雑誌の束を直そうとして、一冊の古い事典が目についた。これは確かガキの頃、姉上に買ってもらったものだ。ボロボロになるまで読んで、背表紙も取れていた。捨てようと思いここに積んだままになっていたものだ。
「宇宙百科、懐かしいな」
何気なくページを捲ると《ペルセウス座流星群》の文字を見つけた。その解説を読めば、どうやら流れ星が大量に降り注ぐらしい。俺はその横に書かれている文字に息を飲んだ。
「2015年…………8月13日未明? って明日か?」
今は12日の夕方だ。あと数時間でこの流星群ってものが拝めるようだ。俺はなんとなく温かい空気に包まれると、仏壇の遺影に目を向けた。偶然なんだろうが、それでも姉上が作ってくれたきっかけのような気がしていた。
「ありがとうございます!」
俺はその場で仏壇に向かって手を合わせると、神楽にメールを送った。
《流れ星みたくねーか?》
返事が来るかどうかそれは分からないが、俺の胸は軽く小躍りしているかのように落ち着きがなくなった。
それから。飯食って、風呂に入って…………神楽から連絡はなかった。そんなような気はしてたが、5分おきにメールの新着状況を確認する俺は、どうもそれを認めたくはないらしい。諦めは悪い方だった。
だが、次第に空も暗くなり、夜が更けていく。だから俺は自分を慰めた。何もしないよりはマシだったと。そうして日付が変わってベッドに寝転んだ。
「せめて、無理とか嫌とか、なんか返事しろよな」
寝返りを打って壁にそう呟くも、心ん中では『見たいアル』なんてメールを送りつけてくれないかと祈っていた。それも真剣に。すると枕元の携帯電話が震えて、それを慌てて取ると滑ってベッドの下に落としてしまった。
「何ヤってんでィ!」
俺は起き上がると手を伸ばしてどうにか携帯電話を取り、そして震える心臓でメールを開いた。
神楽からだ。
《流れ星? 見えなかったらアイスおごれよ》
勝手に頬が緩んで口から歯が溢れる。俺は急いで着替えると、財布と携帯電話だけを自転車のカゴに乗せて走った。
もう二度と後悔はしたくない。そんな思いだけが体の中心で息づいている。目の前の道が暗くても、そんな事は気にならねぇ。いつかの踏切も越えて、住宅街を通り抜けて、少しだけ迷って、またあの寒々しい家の前についた。
俺は呼吸を整えると神楽に電話した。だが、何故か出ない。まさか寝てるなんて事はないだろうな。ここまで来て会えないとすれば、もう一生会うことが出来ないような、そんな惨めな気分になった。
「夜は冷えるアルナ」
玄関からそう言いながらこっちに向かってくる影があって――――――門を開けて目の前に立ったのは、逃げることなく真っ直ぐに俺を見つめる神楽の姿だった。
「なんで迎えに来たアルカ?」
今すぐにでも会いたかった。そんな思いは隠した。
「テメーがまた遅れて来たら堪んねーだろ」
「女の子は色々準備があるネ! 仕方ないアル」
そう言って俺の後ろに飛び乗った神楽は、背中に頭突きを一発決めた。
「……パピーを寝かしつけせるの大変だったんだからナ」
どうも今日はこいつの親父が家には居るらしい。俺は早い所この家から離れるかと、自転車を漕いで近くの山を目指した。
やや湿り気のある風が頬を撫でる。それにも関わらず少しも不快じゃない。
「おい! 坂くらい降りて押せよ!」
「お前こんなもんで音上げてどーすんネ!」
何がいいとか、何が悪いとか。そんなことも考えられないほど、今の瞬間が俺を生かした。
ようやく着いた小高い山の上。その広場にあるベンチに跨って顔を上げた。正面には同じように跨って座る神楽がいる。
「キャッホーイ! なんだコレ? すっごいアル!」
頭上に広がる星の数は、いつも見上げている空と同じとは思えないほどに光が多く散らばっていた。
何も変わってないはずだ。いつもの街で、いつもの俺で、それといつもの神楽。それでも聞こえる鼓動や湧き上がる気持ちは、もう同じではなくなっていた。
「おい、神楽」
漏れた声。すぐ近くに見える神楽の顔が俺に向く。
「えっ? 今なんて言ったアルカ?」
その声に戸惑いが混ざっていて、言った俺も何故か緊張した。
「なんでもねーや。あっ、ほら見てみろ。テメーがぼさっとしてる間に2つも流れた……」
そう言って天を指差すも、神楽の視線は俺に向いたままだった。暗闇でもそれは分かる。顔を下げる事が出来なくなった。
「私、お前に嫌われたと思ったアル。あの日、あんなこと言ったから」
突然の素直になってそんな事を言われると、情けないくらいに体が震える。だが、こいつも逃げなかったんだ。俺も逃げない。
「俺を誘ったあの夜のことを言ってるなら、それは見当違いだ。あの日俺が嫌ったのは…………俺自身でィ」
こいつに寄り添う勇気がなかった。だから、本当はそうじゃないと証明したくて今夜こいつを連れ出した。俺には勇気がある、そう思いたかった。
「よく分からんアル。お前のことも私のことも。なんであんな事言ったとか、今のお前の言葉とか全部」
神楽は俺から視線を逸らすと上を見上げた。
こいつの言ったことが理解出来ないワケじゃない。俺も目で見えてること以外、よく分からねぇ。だが《震えていた華奢な肩》その理由を知ろうとしなかったあの日の俺は大馬鹿野郎だ。
そうやって後ろを振り返り会話してる事が急に滑稽に感じた。だからと言って前を向いて、あるかどうかも分からない将来について語るつもりはない。だから、俺らはきっと上を向いて、その瞬間の為だけに生きる。それしか出来ねえ気がした。
「焦るこたァねーだろ。星が光ってんなーとか、今はそんなことを考えてるくらいで良い」
「随分と気楽アルナ」
そこから言葉がなくなって、星が流れるのをただ黙って見ていた。体に感じる鼓動の高鳴りだとか、時折向けられる神楽の視線だとか、いっぺんにたくさんは解決出来そうにねーから、俺らは一つずつ紐解いていけばいい。それも二人で。
「でも、連れて来てくれて…………ありがとナ」
こっちを見ずに言った神楽に俺は救われると、緩みそうになる頬に歯を食い縛った。
「あーあ、こんなに晴れてんのに明日は雨かよ」
まだ俺には見えないものばかりだ。だが、今長い尾を引いて落ちてった流れ星に視界が明るく照らされ、それでハッキリと見えた。小憎たらしいチャイナ娘の顔が綺麗だってこと。そして、それを見ている俺はアホ面してるってこと。それだけはもう忘れられそうにない。
「何言い出すアルカ! お前、人の気持ち考えろヨ!」
「テメーこそ、たまには男心に気付いてみろ」
きっとガキ臭く、まだまだ不安定な関係なんだろうが、それでも俺の心はこいつに寄り添っていたいと言ってる。今はその思いだけで充分だ。
2015/07/20
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