2015 Request
真夏の深夜2時と真冬の深夜2時で二年後設定の銀神

雫/銀神(リクエスト)

 時計の秒針が耳につき、寝苦しさはいよいよ夢にまでも影響を与えた。電子レンジの中に入れられて、神楽に今から食べられる……と言ったものだった。

 銀時はほぼ半裸の状態で目を覚ますと、水でも飲みに行こうと寝ていた奥の部屋から出た。襖を開けるも居間ですら熱く、きっと廊下に出た所で室内の気温に変化はないだろうと、うんざりしていた。壁にかかる時計を見れば時刻はもうすぐ午前二時だ。明日は七時起きなのだが…………あと五時間も布団の上で体を横たえる自信はなかった。

「ソファーで寝るか……」

 そんなことを呟いて、はだけた寝間着のまま銀時は廊下へと出た。その瞬間、つま先から氷のような冷たさが襲い、体がブルっと震え上がった。一瞬にして体を包む空気が変わり、薄い冷気に覆われたのだ。なんと廊下に――――――髪の長い女が這いつくばっているではないか。

「ギイャアアアアアア!」

 銀時は泡を吹いて倒れると、長い髪の女が苦悶に満ちた……ように見える表情でこちらに這って来たのだ。

 殺される! きっと呪い殺される!

 銀時は強く目を閉じると命の絶える瞬間を待った。こんなことになるなら、昨日のうちに冷蔵庫のケーキを食べておくべきだったとか、戸棚に隠してあるクッキーを食べておくべきだったとか、そう言ったことばかりが頭に浮かんでくる。 だが、無慈悲にも銀時の首に白い手がかけられて…………

「銀ちゃん! しっかりするアル! 熱中症アルカ? 今、水持ってきてやるネ!」

 よく知っている馴染みの声が聞こえたかと思えば――――――気付いた時には頭からバケツの水を被っていた。

「…………どういうことだよ」

「よかったネ! 銀ちゃん生きてたアルナ!」

 銀時はずぶぬれの体を起こすと、目の前でしゃがみ込んでいる神楽を睨みつけた。

「水もしたたるナントカって言うアル!」

 こちらの気も知らずに呑気に笑っている神楽に銀時は怒る気も失せると、少し冷えた頭で状況を把握した。つまり先ほど見た女の霊的なものは、神楽であったということだ。

「いや、そもそもなんで廊下に寝転がってんだよ。あんなもん誰だって真夏の夜中に見りゃ、『あ~、出ちゃった的な、はいはい』ってなるだろ!」

 すると神楽はハァと溜息をつき、立ち上がった。

「考えてみろヨ! 押入れの中でこの熱さ……寝られると思うアルカ!?」

 確かに普通に寝ている銀時ですら目の覚めるほどだ。押入れの中では蒸し風呂のようなものだろう。

「廊下の床って案外ひんやりして気持ちいってことに、定春見てたら気付いたネ!」

 だからと言って死人のように転がっていると、さすがに怖いものである。銀時は濡れた寝間着を脱ぎ下着姿になると、タオルを持って来て体を拭いた。

「……なら、こっちで布団敷いて寝れば良いだろ」

 とは言ってみたが、狭い部屋に二人で寝る方が暑苦しいような気がするのだ。それに神楽もそろそろお年頃だ。銀時と眠るなど、キモいだとかハレンチだとか騒ぐような年齢に差し掛かった。とてもこの案に乗るとは考えられなかった。

「廊下で寝る時はせめて端で寝転がってろ。べ、別にビビってるとかじゃなくて、踏むと危ないからだしッ! じゃあな、おやすみ」

 銀時は水を一杯だけ飲むと寝室へと戻った。だが、神楽が後ろをついて来る。じわりと汗が背中に滲んだ。

 まさかな………………

 だが、神楽はやはりついて来て、そのまま銀時と同じく襖の奥へと姿を消した。

「いや、なんでだよ」

 そう言って振り向くと神楽は銀時に目を細めた。

「だって、言ったネ! こっちで寝れば良いって」

 確かに言いはしたが、本当にこっちで寝るとは思っていなかった。数年前までなら別になんと言うこともなかったが、今のその……神楽の薄いパジャマ越しに透け見える体は、もうガキとは呼べないもので、いくら何もないと思っていても健全ではないのだ。

「お前、もう少し危機感とか、恥じらいとか持ったらどうなんだよ。パジャマの下はパンツだけだろ? それで男の隣で寝るなんてなァ」

 すると、神楽の足が銀時を軽く蹴った。

「大丈夫ネ! 防衛本能は眠ってる時も有効アル」

 布団の上に崩れ落ちた銀時はもう知らないと背を向けると寝ることにした。別に何かが起こるなどとは思っていないが、嫌でも意識してしまうのだ。女と寝床を共にすることを……いや正確に言えば、ずっと可愛がって面倒を見て来た女と寝床を共にすると言うことをだ。しかし、神楽は銀時の隣に布団を敷くと、何も言わずに寝転んだ。どうやらあちらは、銀時に対して《男》と言うものを意識していないらしい。それはそれで構わないのだが、自分だけでなく外でもこうならば少々考えものである。銀時は背を向けたまま神楽に言った。

「まさかお前、どんな男とでもこうじゃねぇだろーな?」

「なんて言い方するアルカ!」

 神楽は怒ったのか銀時の背中に頭突きを食らわせた。熱い頭が汗ばむ背にピタリと引っ付く。

「そんな男の居る所になんて、泊まることないアル」

「…………ああ、そう?」

 何故か頭突きした神楽は銀時から離れなかった。その雰囲気がどうしても意味のあるものに思えてくる。

 神楽のヤツ、一体何を考えてんだ…………

 下着以外何も身につけていない銀時とパジャマと下着以外何も身につけていない神楽。つまりはいつでも本能のままに触れ合う可能性のある男女が、深夜の布団の上で密着しているのだ。神楽の意図が分かるようで分からない銀時は、逸る気持ちを抑えようと深呼吸をして目を閉じた。

「銀ちゃんは? 誰でも隣で眠らせるアルカ?」

 近い距離で聞こえる神楽の声。それが発せられると背中に熱い息がかかった。思っているよりも神楽はすぐそこに居るらしい。銀時は険しい表情をすると、神楽を拒むように言った。

「……もう寝ろ。明日、起きられなかったら置いて行くから」

 神楽の質問に答えるべきでないと思ったのだ。真面目に答えれば命取りのような…… 急激に縮まった神楽との距離に銀時は混乱していた。 正直、神楽とは――――――ない。厄介なことになると分かっているのだ。手を出せば遊びで終われないことなど。銀時にはそんな責任を負う覚悟は少しもなかった。

《神楽には幸せになってもらいたい》

 その想いはいつの頃からかずっと銀時の胸に存在し、絶え間なく揺らめいている。身分もあって、金もあって、神楽を愛することの出来る男。そんな人間と結ばれることが神楽にとっての幸せであると思っていた。それなのに背中に触れる熱い指は銀時を悪戯に引っ掻き回す。神楽の細い指。それがそっと背骨をなぞる。いたぶるように。だが、無垢だ。

「なんで? 答えたくないアルカ?」

 計算された女のものとは違う。純粋故に真っ直ぐで逸し難いものである。逃げることを許さない優しさのない熱。それが銀時の脊髄を刺激する。寝るに寝れない。期待値の高まる胸の中から爆音が聞こえる。払いのけるだけで良いのに、体はそれを拒むように動かないのだ。

「……寝たふりアルカ?」

 その言葉に銀時は便乗し、そのまま寝たふりをして乗り切ろうと思った。そうすれば神楽もさすがに諦めるだろう。そう思っていると背中に柔らかいものが触れて、ぬるりとしたものが這わされた。

「お、オイッ」

 焦った銀時が遂に神楽に正面を向けると――――――そこに居る神楽は想像しているものよりも艶かしく淫らで、美しい女であった。 銀時は泣きたくなる気持ちを抑えて目を閉じた。

「寝ろ。いいから、もう寝てくれよ」

 これ以上そそのかされると銀時も自信がないのだ。神楽の望み通りの結末を迎えそうで、ただただそれが恐怖であった。

「眠れるわけないジャン……ヒドいヨ。銀ちゃん」

 酷いのは一体どちらだろうか。独身男をそそのかす神楽か、純粋な少女を寝室に引き込んだ銀時か。どちらにも罪はある。

「あのな、お前とどうこうなろうなんて気はねぇんだよ。分かったらもう寝ろ」

 銀時はハッキリと口にすると、それまで引っ付いていた神楽の体が離れた。ようやく理解したのだろう。何をしても無理であるのだと。銀時は閉じていた目をそっと開けると、こちらを見ている神楽を目に映した。

「知ってるアル。でも、それでも良いって思ってるネ。だから…………」

 神楽はそう言うと体を起こして、ゆっくりとパジャマのボタンに手をかけた。今から何が繰り広げられるのか。銀時の頭の中に映像が流れるが、喉が絞られ声が出なかった。

 やめろよ……神楽…………

 だが、その言葉は届かず神楽の指は上から順番にパジャマのボタンを外していく。薄暗い部屋でも分かる白い肌が徐々に露わになる。

「もうきっとこんなチャンスはないネ。それをみすみす逃すほど、私もボケてないアル」

 遂にパジャマのボタンが外されると、神楽は銀時に被さった。

「どうしても駄目アルカ?」

 唾が音を立てて喉を通る。震えているのか呼吸が乱れて上手く出来ない。だが、先ほどまでとは違う。その震えは恐怖から生まれたものではなかった。体を抑えつける精神が限界だと悲鳴を上げているのだ。

「いや……ちょっと、お前、待てって……マズいだろ、なあ」

 神楽には幸せになってもらいたい。その言葉に偽りはない。だが、銀時は欲に負け、神楽を汚した。

 

 白い肌に落ちる雫は汗か涙か――――――

 薄明かりの部屋で乱れる呼吸は二名分で、しかし絶え間なく聞こえる声は神楽のものだ。

「これ以上、もう何も望まないアル」

 その言葉通りにその夜を境に神楽は一切、銀時への思いを見せなくなった。それには安心した銀時であったが、触れた肌の感触や奥の方の熱。それらが体に染み付き離れなくなっていた。どんなに日が経とうとも色褪せることなく体に残り、それが手を出した罰であるのだと銀時は受け入れるしかなかった。

 

 

 

 あの夜からどれくらい経ったか。街路樹が黄色く染まり始める頃だった。

「ええ! 彼氏が出来たッ!?」

 居間のソファーで口からお茶を吹き出した新八は、戸の前で立っている神楽に驚いていた。そのやり取りを銀時は窓際の椅子でテレビを観ながら聞いていたのだが、神楽の言葉よりも新八の驚きっぷりの方が気になった。

「うん。でも、紹介とかは出来ないアル……色々あるから」

 神楽の言った色々にあの夜も含まれているのだろうか。目を閉じれば今でもハッキリと思い出せる、神楽の震える声と熱い吐息。だが、それは別の男のものになるのだ。嫉妬なのか銀時は奥歯を強く噛み締めた。

 神楽を知らなければこうはならなかったはずだ。ということは、この辛さは神楽を受け入れた自分への罰である。神楽の幸せを願っていた癖に、誰よりも先に手をつけて食べた罰だ。

「銀さんッ! 聞いてました? 神楽ちゃんに彼氏って……」

 そう言って新八がこちらを向くと、それに付いて神楽の視線も向けられた。どんな顔をしてこんな報告をしてきたのか、銀時は見てやろうと目線をテレビから外した。そして、左の方へと流す。思わず眉をひそめた。

 なんつー顔してんだよ…………

 下がった眉尻と垂れた目。笑っているのか泣いているのか分からないのだ。そんな顔を向けて『彼氏が出来た』などと言う女は本当に幸せなのだろうか。銀時は答えを知っていた。だが、自分は思いを受け入れなかったのだ。許したのはその体だけ、であった。

「…………どっかの碌でなしよりは、マシなんじゃねぇの」

「誰ですか? 碌でなしって?」

 何も知らない新八はそう言って首を傾げていたが、神楽には伝わったのだろう。気付けば姿が見えなくなっていた。銀時の視線は再びテレビに戻る。これで全てが終わったのだと、もう何も期待すんなと自分に言い聞かせた。忘れられない真夏の夜が、神楽にとってただの通過点になったのだ。

 

 それから。休みの度に神楽は《デート》だと言って出かけた。門限の9時を破ることはなかったが、常にその彼氏と一緒にいるらしく、どこで何をやっているのかは想像に難くない。だが、銀時は出来るだけ何も考えずに過ごした。詮索するのは滑稽であり、干渉するのは無様である。何も言わずに、ただ己を蝕む負の感情に飲み込まれないようにと耐えた。時折、居間のソファーで眠っている神楽に胸を掻き乱されるが、毛布をかけてやるだけだ。しかし、残酷なものである。手を伸ばせば触れることの出来る距離に居るにも関わらず、触ることは許されない。

「ぎん、ちゃん…………」

 寝言なのか神楽が銀時の名前を呼んだ。ただそれしきのこと。なのに、銀時の心拍数は上昇する。

「神楽」

 ソファーの背もたれ越しに神楽を覗き見て、頭を撫でた。しなやかな髪が手のひらをくすぐる。誰にも知られない今なら、その髪に口付けることくらいは出来そうだ。しかし、それをすれば隠している気持ちは更に膨れ、そしてまた望むだろう。神楽が欲しいと。

 てめーで受け入れなかった癖に随分と勝手なもんだ……

 銀時はそんなことを心で呟くと遠くを見つめた。

「…………飲みに行くか」

 銀時はまだ下のスナックがやっていると、神楽を置いて万事屋を出たのだった。

 

 店に入れば馴染みの顔があり、銀時はカウンター席に向かうとサングラスをかけた男の隣に座った。

「あれ? 銀さん、こんな時間から飲みにくるなんて珍しいな」

「冷えるから熱燗でもと思ってな」

 そう言った銀時に、カウンター内に居たお登勢は温かい徳利を出した。

「そんなに今夜は冷えてるとは思えないけどね」

 しかし、銀時の心は凍てつくように冷えているのだ。それを溶かすことはない。溶ければ一巻の終わりである。きっと眠っている神楽に――――――銀時は頭を振るとよくない考えを掻き消した。

「そう言えば神楽ちゃん、最近遅くまで公園に居んだけど……」

 長谷川の言葉に、銀時は持っていたお猪口をテーブルに置くと瞳を揺らした。夜遅くまで公園で誰と何をしているのかなど知りたくもないのだ。

「それよりも長谷川さん、最近コッチはどうよ?」

 銀時は話を変えようと、右手でパチンコを打つ仕草をしてみせた。すると長谷川もそっちの話の方が良かったのかスグに食いついた。

「それがさ~、聞いてくれよ。二丁目の角で負けたから四丁目で挽回しようと思ったら、全部持って行かれちまって」

 そうして長谷川の馬鹿話に銀時は少し救われると、ちょうどいい眠気になったと店を出た。これなら余計なことを考えずに眠りに就ける。そんな弱気な心を隠すように家に帰った銀時は、頭から布団に潜ったのだった。

 

 

 

 季節は江戸に白粉をまぶした。布団から出る手足は冷え、銀時は鼻をすすりながら目が覚めた。何やら朝からドタバタと煩い。何事かと思って居間へ出ると、神楽が慌ただしく走り回っていた。

「え? なに? なんだよ朝から」

 だが、神楽はそれには答えずに、鮮やかな真っ赤なコートを着て飛び出てしまった。やけに着飾っていたような気もする。髪型も普段と違って一つにまとめられていた。

「どこ行ったのあいつ?」

 そんなことを言い、腹を掻きながらテレビをつけると結野アナが素晴らしい笑顔で挨拶をした。

「おはようございます。十二月二十四日。クリスマス・イブの天気をお伝えします」

 それでようやく分かったのが。今日がクリスマス・イブであると。つまり神楽は仲の良い彼氏ときっと――――――もしかすると朝まで帰らないような気がしていた。だが、もう今更何かを言うつもりはない。幸せにやっている二人に水を差すつもりもない。スグにでも神楽を捨てて、泣かせるような男であれば問題だったが、今のところそんな事はどうやらないのだ。銀時はいつも通りに洗面を済ませ、着替えると、特別でもなんでもない一日を過ごした。街に出る用事もない。どうせどの店もカップルで溢れかえり、独り者に寄り添うのはピンクのお店くらいのものだ。だが、それも今はどうでもよく、初めて迎える神楽のいないクリスマス・イブに銀時は暇を持て余していた。時刻はもうすぐ日没だ。そう言えばイチゴ牛乳が空になったと、銀時はマフラーを巻いて外へ出るとスクーターに跨った。

 街を走れば、どこもかしこも性なる夜を楽しんでいる男女で蔓延っていた。それに神楽も紛れているのかと思うとなんとも言えない気分になる。残念と言うような…………そんな感じだ。暗くなる空に街路樹を飾った電飾が煌めき輝く。信号待ちしている銀時はそれを眺めると、寂しい気分がこみ上げて来た。

 そう言えば、よく神楽と新八と飾ったな…………

 それが遠い昔に思えたのだ。あの頃は何も知らずに呑気にはしゃいでいて、ずっとそんな日常が続くと手放しで思っていた。だが、現実はそうではなかった。寧ろ、自分でそれを壊してしまったのだ。神楽を一度でも受け入れてしまったがために。銀時はコンビニで目当てのイチゴ牛乳を買ったが、このまま誰もいない家に帰る気にはなれなかった。向かうはお妙のところか、月詠のところか…………

 今夜こそ断ち切れるような気がしていた。全てを忘れるのなら今夜しかないような。それはただの勘なのか、それとも予感なのか。銀時はスクーターを走らせると夜の街へと消えて行った。

 

 万事屋に帰ったのは、既に日を跨いでいた。午前一時を過ぎている。酒は飲んでいない。それでも大人数で騒いで、馬鹿になれば気分も晴れやかなものであった。もう神楽を忘れることは出来る。寝て起きて目が覚めた時、神楽にうまく微笑みかけることが出来そうなのだ。銀時は鼻歌を歌いながら階段を上ると玄関を開けた。目に入ったのは、投げ捨てられたような神楽の真っ赤なヒールであった。

「おい、靴ぐらい揃えろよ」

 小声で呟くと銀時は綺麗に靴を揃えた。そして、居間へ向かうと――――――チャイナドレス姿で銀時の椅子に座り、机に突っ伏している神楽が居た。

「ぎ、ぎんちゃん!」

 居間の灯りがついた事に驚いたのか、神楽が顔を上げたが、その顔は涙で濡れており銀時の胸に冷たい風が吹き込んだ。

 なんで神楽が泣いてんだよ…………

 幸せにやっていると思っていた。銀時は険しい顔で神楽に近寄るとスグ脇にしゃがみ込んだ。

「何があった?」

 しかし、神楽は首を横に振るばかりだ。言いたくないらしい。それとも言えないような酷い目に遭わされたのか。銀時の体が燃えるように熱くなる。怒りで震えそうなのだ。神楽が幸せになれると思ったから今まで何も言わずに目を瞑って来た。だが、それも限界である。言わずにはいられないのだ。

「つか、相手は誰なんだよ。お前何にも言わねぇから訊かなかったけど、さすがに神楽泣かされて……黙ってられねぇわ」

 そう言って立ち上がった銀時を神楽は腕を掴んで制止した。

「違う、違うアル、銀ちゃん!」

 相手を庇うような発言。思わず顔が引きつる。

 そんなに大事なのかよ……

「泣かされて黙って帰って来るなんてお前らしくねぇな。言っとくけどな、女泣かせて放っておく男なんざ、碌な男じゃねぇぞ」

 すると神楽は銀時の着物を掴んだまま頷いた。

「うん、そうアルナ。碌な男じゃないアル……」

 突然変わった神楽の態度。それを不思議に思い、伏せがちな神楽の顔を覗き込んだ。

「だったら……そう思うんなら別れたら良いんじゃねーの?」

 床を向く神楽の瞳が激しく揺れる。

「な、なんでそんなこと言うアルカ? 銀ちゃんはなんでそう思うネ?」

「なんでって、辛い思いしてまで引っ付いてる必要なんかねーだろンなもん」

 すると神楽の顔が上がり、銀時を真っ直ぐに捕らえた。もうその瞳は涙には濡れていない。だが、何か強い想いを感じるものであった。

「その逆はどうアルカ?」

 神楽の言葉に銀時は焦った。

「逆ってどういう意味だよ」

 それを尋ねることに躊躇いはない。だが、何か知ってはいけないようなそんな気だけはするのだ。

「辛い思いしてまで…………無理して離れるのはおかしいって……銀ちゃんは思わないアルカ?」

 心を揺さぶる神楽の言葉。頭が混乱をしはじめる。

「な、なんだよ急に。何が言いてぇんだよ」

 神楽は誰の事を言っているのか。辛い思いをしてまで離れているのはどこの誰なのか。どうしてそれを尋ねてくるのか。銀時には分からなかった。

「私、もっと強いと思ってた。もっとずっと我慢出来るって思ってた。でも無理だったネ」

 そう言った神楽の目にまた涙が滲んだ。そして苦しそうに胸を押さえる。

「神楽?」

 銀時が名前を呼ぶと、神楽の目は銀時だけを映した。少し赤い鼻先。室内にいるにも関わらず吐く息は白く、神楽の体が小刻みに震えていることに気付いた。

 こいつ……いつからこの部屋に暖房もつけずに居た?

 もしかすると銀時がイチゴ牛乳を買いに行ってすぐだろうか。それともさっきまで外に居たのだろか。神楽の異変に銀時は目を細めた。

「お前、今日はずっとどこに居たの?」

 すると神楽の目は驚いて、そして床へと落ちた。

「………………外アル」

「はぁ? 一日中、外で何やってんだよ」

 そう言って掴んだ神楽の肩は冷たく、その言葉が嘘ではないことを知った。

「金がないからか? だから、お前ら外に居て…………」

「彼氏なんていないアル」

 その言葉がさらなる混乱を招いた。もしその言葉も真実だとしたら、この数カ月間、神楽は誰と何をしていたのか。

「いや、お前!」

 神楽の顔が歪んで、そして悔しそうに言葉を吐き捨てる。

「だって銀ちゃん、私が好きでいると困るんデショ! だから違う人好きになったフリして、ずっと……ずっと…………」

 静かな室内に神楽の叫び声が響く。それは銀時の脳にも心にも大きく響き渡った。神楽を受け入れなかったのは、神楽を思ってのことだ。迷惑だったわけでも、嫌いだったわけでもない。しかし、その想いは神楽には届いていなかった。

「カレシが出来た事にすれば、銀ちゃんは安心すると思ったネ。もう私から好意を向けられなくて済むって」

 痛む。眼の奥や、鼻の奥、そしてまだ触れたことのない体の最も深い部分が。

「ま、待てよ……じゃあ、お前はずっと今日も一人で…………」

 神楽は頷くと、窓際の椅子に座ってこちらに背を向けると膝を抱えた。

「平気だと思ってたネ。嘘ついて一人で時間潰すのにも慣れたって。でも、今日は街の連中見てたら、なんか辛くて……銀ちゃんのこと全然忘れられないって思って……」

 銀時は額に手を置くと項垂れた。神楽の気持ちが痛いほど伝わって来るのだ。あれだけ神楽の為を思って、一度だけだと約束し、体だけを受け入れた。しかし、それが一番神楽を傷つける結果になったのだ。

 神楽を泣かせたのは、俺か…………

 身を丸めて震える神楽の背中は随分と小さく弱く、儚い存在に思えた。まるで外に降る雪のようにそれはいつ消えてしまうか分からない、不確かな存在であった。今一度、銀時は神楽の幸せは何であるのかを考えた。身分もあって、金もあって、神楽を愛することの出来る男。そんな人間と結ばれることが神楽にとっての幸せであると――――――だが、果たして本当にそうなのだろうか。目の前で泣いている神楽は他の誰でもなく、自分だけを望んでいる。それにも関わらず『お前には俺よりも相応しい人間がいる』と言って背中を見せるのは、逃げ以外の何ものでもないだろう。もう傷つけるわけにはいかないのだ。

「神楽」

 銀時は神楽の頭に手を置くと冷たい髪を撫で付けた。

「悪かった」

 すると神楽の顔がこちらを向いて、だがまだその瞳に生気はない。遠くを見つめるような目だ。銀時はその目に自ら映り込みに行くと、目線の高さを合わせた。

「…………冷てえな、お前の体」

 そう言って頬を撫でれば神楽が瞬きをした。

「ぎん、ちゃん?」

「とりあえず風呂入ってこいよ。布団敷いといてやるから」

 すると神楽の顔に光が射した。

「一緒に寝ても良いアルカ?」

 銀時は神楽に背を向けると首を掻いた。

「…………ただ寝るだけってのも、勿体無えけどな」

「ぎ、銀ちゃんッ!」

 神楽は背中から銀時に飛びつくと、勢い余って二人は床に倒れてしまった。

「寝ないで待っててヨ! 絶対だからナ!」

 銀時の体に神楽の柔らかな胸が押し付けられる。それに不埒な妄想に駆られた銀時は一気に目が冴えた。時刻はもうすぐ午前二時を迎える。雪のように白い肌を熱でささっと溶かしてしまいたいと、銀時は布団の上で正座をして待つのだった。

 

2015/07/12