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覚めない夢/銀神:01

 

 神楽は銀時の夢を見た。だが、その顔にはモヤがかかりはっきりとは映らない。あんなにも毎日眺めていた顔は、いつの頃からか思い出す作業を加えてようやく夢に描き出される。なのに今日はいつもと違う。どうやっても見えて来ない。           

「銀ちゃん!」

 神楽は慌てて布団から飛び出すと、タンスの引き出しから1枚の写真を取り出した。それはいつか万事屋の前で撮影した写真で、三人と一匹が騒がしそうに写っているものであった。しかし、それを見つめる神楽の顔は浮かないもので物悲しい目をしていた。

「なんで……忘れちゃうのよ……」

  銀時が居なくなってから実に5年もの歳月が流れていた。

 いつまでもあんなアホ面、忘れたくても忘れられないと思っていたのに。

 神楽はそんな事を思うも、銀時の顔を確認している自分を誤魔化すことは出来なかった。忘れ始めようとしているのだ。銀時の事を――――

 神楽は再び写真を引き出しに片付けると、今日は朝からお登勢に呼び出されていた事を思い出した。

「今何時!?」

 慌てて出掛ける用意をすると、定春に餌を食べさせて小さなアパートの一室から飛び出した。このアパートからスナックお登勢までは5分はかかる。だが、今では店までの距離にもすっかり慣れていた。他にもこの殺風景な町並みにも慣れたし、少なくなった自動車の走行音や行き倒れている人にも――――そう何もかもに慣れていた。新八の冷めた目付きだとか銀時の居ない万事屋だとか。本当に色々と。そんなことを考え歩いていると、あっという間に店に着いた。神楽は“準備中”と書かれた札を目にしたままスナックの引き戸を開けた。

「よぉ、神楽。悪いな」

 すると店の中には煙草を飲むお登勢ではなく、ニッとした笑顔を携えた源外が居たのだった。

「え? バアさん、ついにジイさんになっちゃったの?」

 そんな驚いた神楽の声に店の奥にいたのか鬼のような形相のお登勢がこちらへとやって来た。

「神楽! ついにってどう言う意味だい!」

「冗談よ。そんな怒ることないでしょ。それで何の用?」

 すました顔で神楽はそう言うと、お登勢にいつもの栄養ドリンクを注文してカウンターの椅子に腰掛けた。

「このポンコツ爺さんが、また余計なもん作っちまってね。私は正直言ってあんまり乗り気じゃないんだけど……」

 そう言ってお登勢は神楽の前にグラスを置くと栄養ドリンクを注いだ。そして、咥え煙草のまま顎だけでアッチと神楽の後ろを指し示すと、それを見た神楽は何があるのかと椅子をクルリと回転させた。

「何これ? エアロバイク?」

 そこには何だかよく分からないカラクリ装置の付いた自転車が一台置いてあった。カゴの中に収まった装置は見るからにややこしそうな機械で、神楽はそれを見てだいたい何を頼みたいのかを理解した。

「実験台になれってこと? 悪いけどそういうのは、あの中二病メガネにでも頼んでくれる? じゃあね」

 こんな未知の装置に繋がれるなんてゴメンだと神楽は席を立った。

「ほら、私の言った通りじゃないか。神楽は嫌がるって言っただろう」

 背後でバアさんがジイさんにそう言うと、今度はジイさんがバアさんにこう言った。

「性能も聞かねぇで断る奴があるか! いいか、これはよぉ夢幻製造機つってな、自分の頭ん中の考えや思いを実際に体験出来るカラクリだ」

 「何それ」

 思わずそんな事を呟いた。とてもじゃないが嘘くさく信じられない話だ。しかし、このジイさんが侮れない事を神楽は知っていた。今まで幾度もこのジイさんのカラクリに驚かされて来たのだ。だからこの機械も例外なく――――

「どうせ欠陥品でしょ。ジイさんの発明品はいつもどこかが惜しいのよ」

 そう言って神楽は振り向いてしまうと、相変わらずニッと笑うジイさんがそこに居た。

「そうまで言うならテメェで確かめてみろ。欠陥品じゃねぇってな」

 神楽は考えた。確かに新八にこれを使わせると……お通ちゃんと何かいたしてしまうのではないか。そういうクダラナイ事になるような気がしたのだ。それではさすがの源外もやってられないだろうと、神楽は仕方がなく自分が実験台になってあげることに決めた。

「良いわ。引き受けてあげる」

 神楽は自転車に跨ると、さっさとお願いと言わんばかりに源外を振り返り見た。

「これ使うにはおめぇしか適役がいねぇんだ。時速100キロ出してようやく稼働する作りにしちまったもんだからな」

 相変わらずどこかが抜けていると神楽は一瞬顔を青くしたが、こんな自転車で夢幻を体験など出来るはずがないとはなから信用していなかった。それにどうせ失敗しても無駄に自転車を漕がされるくらいだと、あまり深く考えていなかった。

「そのカゴに入ってるカラクリに青いスイッチが付いてるだろ? それを押して自転車を漕げ。そうすりゃお前の望む世界にひとっ飛びってワケだ」

 神楽は半信半疑でスイッチを入れると自転車をゆっくりと漕ぎ出した。ハンドルについている速度計は既に時速40キロを示していた。

「100キロ出せば良いんでしょ! ふぬぬぬぬぬぬぬっ!」

 神楽はハンドルを強く掴むと足をより一層速く動かした。自分の頭の中に広がる世界や夢など正直言ってよく分からない。もし仮に源外の作ったカラクリが神楽をどこか別の場所へ飛ばすとしたら、一体どこへ行くのだろう。ただ一つハッキリしているのは、いつだって神楽の胸の奥には“万事屋”が温かく存在しているのだ。銀時がいて、新八がいて、定春がいて……自分がいる。そんな万事屋が神楽にとって全てであり、いつまでも忘れることの出来ない世界であった。

「あ、あと少しッ!」

 時速100キロまで届こうとしていた。速度計の針が時速98を指している。

「忘れてたが、あっちの世界の住人に出会っても絶対にこっちの世界のことを喋るんじゃねぇぞ! 夢が消えちまうからな! 名前も名乗るな――――」

 次の瞬間には源外の声が聞こえなくなり、神楽は叫びながら速度計を見ていた。

「100いったーーー!」

 神楽は自転車を漕ぐのをやめると、赤い頬でどれくらいか振りに笑顔を作って喜んだ。しかしそれも束の間、頭から水を被ったのだった。神楽はハッとして頭上を見上げるとアパートの二階からこちらを見下ろしている中年の男がいて、手にはバケツが持たれていた。

「うるさいぞ! 今何時だと思ってるんだ!」

 男は神楽を叱りつけると窓をピシャリと閉め部屋へ戻って行った。

「何なの! っていうか待って――――」

 神楽は濡れた体のまま自転車からゆっくり降りた。だが、震える膝のせいで上手く立っていられない。別段寒いわけではないのだが倒れてしまわないように自転車を支えにして辺りを見渡すと、心臓がバクバクと激しく音を立てた。

「ここって……かぶき町?」

 自分を照らすは頼りない街灯と小さく見える月。木造の古いアパートとアパートの間に立っていて通りは見えないが、頬を撫でる風や鼻につく匂い、それらが神楽のよく知っている町の匂いと同じであった。神楽は頼りない足取りで路地裏から出ると道ゆく人の顔を一人一人確かめた。

「……知ってる。見たことある。知ってる」

 神楽はフラフラと人波に飲まれながら通りを歩いた。本当に自分の思い描いている世界が現実になったのだ。どれほど焦がれたことか。この活気あるかぶき町をもう一度だけ見たいと、どんなに願った事か。だが、まだ信じられないのだ。もしかすると本当はただ自転車を漕いで、かぶき町に似たような場所へ着いただけなのかもしれない。そう思ってぼんやり歩いていると、ある一軒のキャバクラから出て来た人とぶつかった。

「あら、ごめんなさい」

 神楽は聞き覚えのある声に顔を上げると、目の前にいる一人の女性に言葉を失った。

「怪我はないかしら?」

 落ち着いた雰囲気と柔らかな瞳。にこりと笑うこの顔を神楽は今まで何度も見ていた。そこに立っていたのは白詛に冒され闘病中である志村妙であった。神楽は激しく動揺すると一歩も動けずに元気そうなお妙を見ていた。

「どうかしましたか? 私の顔に何かついてます?」

 神楽はこれで今いる世界が紛れもなく、あのかぶき町である事を確信した。

「別にそういうわけじゃ……」

 神楽はお妙に飛び付き抱き締めてしまいそうになったが、これは飽くまでも夢なのだ。現実の世界では変わらずにお妙は病に臥している。その現実が変わらない限り喜べるものではなかった。だが、夢の中くらい元気そうで良かったと神楽はお妙に背を向けると立ち去った。妙にもの悲しく苦しいのだ。あれほどまでに望んだ世界なのだが所詮はただの幻覚だ。ただ自分を甘やかし慰めるだけで何かが変わるワケではない。神楽は元の場所へ戻ると自転車に跨って狭い空を見上げた。

「銀ちゃん……」

 この世界は幻だ。そうならばやはり万事屋には銀時がいるのだろう。神楽は会ってみたい気持ちがないわけでは無かったが、現実の世界に戻った時に襲う悲しみや虚無感は今迄の比ではないだろう。そう思うと夢の中だけでも――――という風には思えなかった。

 夢から覚めよう。神楽は自転車のカゴにあるカラクリのスイッチを押すと、再び時速100キロを目指して漕ぎ始めた。

「うぃ〜、この辺りで〜」

 その時だった。誰かが路地に入って来たかと思うと、アパートの壁に向かって立ち小便を始めたのだ。神楽は目の前に現れた男に腹を立てると、思わず自転車から降りて注意しに向かった。

「信じられない。あんた人の夢で何やっ……てッ!?」

 神楽は僅かな明かりに照らされるその男の顔に呼吸が止まってしまった。死んだ魚のような目に癖のある銀髪。だらしなく締まりのない顔はほのかに赤く、甘ったるさを含んだアルコールの匂いを漂わせていた。

「……ぎ、銀ちゃん」

 神楽は思わずそう呟くと目の前の男は額に汗を滲ませた。

「あ、あの、ちょっとオネエサン? えっと……いや、ちょっと!」

 この世界は幻だ。神楽はそれを知っている。だが、理屈ではどうすることも出来ない感情があって、立ち小便中にも拘らず神楽の腕は男の首に巻きつけられた。

「オィイイイ! つかそういうプレイ? いや俺、そっちは興味無えんだけどォオ!」

 夢でも良い。幻でも構わない。神楽は銀時に会えたことが嬉しくて堪らなかったのだ。しっかりと伝わる銀時の温もり。温かな神楽の足は――――

「って何引っ掛けてんのよ! バカっ!」

 小便をし終えた男は神楽によって思いっきり殴られたのだった。


「で、人違いだったって?」

 神楽は男の自宅の居間にいた。頬を腫らした男の手当てをしてやっていたのだ。夢とは言え見ず知らずの男の家に上がるなどどうかと思ったが……いや、やはりよく知っている男であった。この男は坂田銀時で間違いない。神楽はあの後、負傷した男を自宅まで運んでやったのだが、辿り着いた先が住み慣れたあの万事屋であったのだ。

「そういうコト。ぎん……捜してる男に似てたから」

 神楽はソファーで隣り合って座る銀時から目を逸らすと嘘をついた。源外の言葉を思い出したのだ。自分の存在を明かしてはいけない事を。神楽の住む世界や存在を明かしてはならない。さもなくばこの世界が消滅してしまうのだと。

 銀時の頬に湿布を貼り終えた神楽は、銀時に視線を戻すと顔をマジマジと見つめた。そして、ほんの少しだけ柔らかい顔で笑ったのだった。夢の中とは言え確かに銀時は存在しているのだ。手に触れ、肌にその熱を感じることが出来たのだから。当初は源外の発明を信用していなかったが、今ではその評価もすっかりと覆っていた。世紀の大発明であると。しかしやはりこれは夢であり、いつかは覚めなければいけない。神楽は夢に甘えてはいけないと席を立った。

「じゃあ、私は帰るわ」

 すると、どういうワケか見えている銀時が面白くなさそうな浮かない顔をした。まるで神楽に帰って欲しくなさそうに見える。

 そんな事、あるわけないじゃない。神楽は思った。これは自分の描く夢なのだから自分の都合の良いように銀時が生きているのだと。本当は銀時に待てと引き止められる事を望んでいるのだと。そうすればここに少しでも長く留まる口実が出来上がるのだ。

「何?」

 神楽は期待してしまった。もう二度と現実世界で銀時に会えないのなら夢の世界でくらい思いっきりお喋りして笑って、喧嘩をして殴り合って、そして一緒に眠ってみたいのだ。それを実行させるだけの勇気が欲しかった。

「その捜してる男、なんならこの万事屋銀ちゃんが見つけてやろうか?」

 神楽はその言葉に小さく首を左右に振った。どんなに捜したってその男に会うことはもう二度と出来ないと神楽は知っているのだ。

「あ、もしかして報酬がネック? うちは一応、成功報酬って形でやってるんで……」

「いいわよ、別に。捜してもらわなくたって」

 神楽は銀時に背を向けると太ももの横で拳を握った。言ってしまいたいのだ。あんたの事だと、ずっと会いたかったんだと。だが、言えば説明に困る。何よりもこの世界が消える事など考えたくもないのだ。夢の中でさえも銀時を失うなんて二度と御免であった。このまま帰ってこの思い出を胸に現実を生きよう。神楽はそう腹を決めると銀時を振り返ることもせずに万事屋を飛び出した。

 万事屋からさほど遠くない路地裏。自転車を停めた薄暗い隙間に神楽は戻って来ると――――そこには何も無いのだった。場所を間違えたのか。神楽は周辺を隈なく探し歩いたがどこにも自転車は見当たらない。

「まさか……撤去されちゃった!?」

 神楽は慌てて近くの交番へ向かうも氏名も住所も答えられない今の状況では、全く話にならないのだった。どうするべきか。神楽は人通りの少なくなった通りで空を見上げた。

「銀ちゃん……」

 心細くなると必ず口にする言葉。それがどうするべきかを指し示していた。今、この世界で頼れるのは万事屋銀ちゃんしかいないのだ。神楽は飛び出しておきながら戻るなど格好つかないと思ったが、このまま路上で一夜を過ごすワケにはいかないと再び万事屋を目指したのだった。


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覚めない夢/銀神:02

 

 神楽が玄関のチャイムを押すと間もなく戸は開かれた。

「あれ? なんだよ。気が変わったの?」

「そうじゃなくて……」

 神楽の焦る表情に銀時も何かあった事を察したのか、神楽を再び家の中へ招き入れたのだった。


 居間のソファーで対面に座った二人は、言葉もなくただ床を眺めていた。神楽は自転車が盗まれたのか撤去されたのか分からないが、なくなってしまった事とアレがなければ家に帰れない事を話した。それと金が無い事も。見える銀時の顔は酔いも覚めているのか随分と難しい顔であったが、何を考えているのかくらいは分かっていた。きっと自分ををどうするべきか悩んでいるのだろう。だが、神楽としては泊めてもらいたいのだ。住み慣れた万事屋なら何も心配などいらないのだから。

「いつもならガキ共がいるから、こういうのは無しって決めてんだけどな……」

 銀時は頭を掻くと神楽をチラリと見た。その瞳は今まで銀時を何年も見てきた神楽でも、初めて見る類のものであった。どこか緊張しているような落ち着きのないものなのだが、その癖やけに穏やかなのだ。神楽は思わず目を逸らすと自分まで落ち着かなくなった。

「とりあえずお風呂借りれるかしら? もう一回くらい足、洗っとかないと気分悪くて」

 神楽は銀時が何か言う前に脱衣所に逃げ込むと、さっさと服を脱いだ。そう言えば先ほど銀時は“いつもならガキ共がいる”と言っていた。考えてみればこの夢でまだ新八にも……自分にも会っていなかった。しかし、神楽は自分はもちろん新八にも会いたいとは思えなかったのだ。正直、どんな感じで会えば良いかわからない。その思いが反映されたのか、都合良く今夜は新八も自分自身も居ないようであった。

 神楽は真っ白い肌を晒すと、万事屋の風呂へどれくらいか振りに浸かったのだった。


 風呂から上がれば戸棚からバスタオルを出して体に巻きつけた。だが、替えの下着や服はない。神楽はこっそり物置へ入るとこの世界の自分のものと思われる下着を着けて――――しかし、どうもサイズが合わない。そこで神楽はウサギの絵柄の描かれたパンツに首を傾げた。

「もしかしてこっちの世界の私って……子供?」

 一番楽しかった頃の記憶。それがこの世界を作り上げたとしたのなら納得が出来た。神楽は仕方がないと、バスタオル姿のまま銀時のいる居間へ向かったのだった。

「ねぇ、何か着るものない?」

 突然現れた神楽に驚いたのか銀時は瞬きを数回繰り返すと、ソファーから立ち上がって隣の寝室へ移動した。そしてタンスの中から銀時がいつも着ている着物を取り出すと神楽に渡した。

「お宅もそれ、チャイナドレスに作り変えて着てたよな。下着は無えけど着慣れた物なら幾分かマシだろ?」

 神楽は言われて思い出した。自分が銀時の形見である着物を着ていた事を。

「べ、別にあの着物が好きってわけじゃないんだからね」

 神楽は銀時がその事実を知り得ないとは分かっていてもどうも恥ずかしく、思わず悪態をついてしまった。するとそんな神楽に銀時がフっと笑った。

「安いからな、ズンボラ星の制服は」

 どうも貧乏だと思われたらしい。神楽はそれを悔しく思ったが、どれくらいか振りにこうして銀時と会話をして過ごせる事に胸が熱くなった。込み上げてくる想いがあるのだ。

「じゃあ、借りるわ。ありがとう」

 照れ臭かった。銀時に素直に礼を言うなど。でも、今はどんなに言いたくても言えないのだ。だからせめて夢の中くらい。神楽は脱衣所に戻り銀時の着物を素肌の上に着ると、髪を乾かし銀時の居る……今度は布団の敷かれてる寝室へ向かった。

「本当に良いの? 泊まっても」

 今更ながら神楽は銀時に尋ねた。銀時は既に布団の中に入っており、神楽の突っ立ている方へ背中を向けていた。

「別に良いも悪いも俺は言ってねぇよ。あんたの好きにしたら良い。つか寧ろそっちは良いのか? 見ず知らずの男の家に泊まるなんてなぁ。捜してる男が知ったら俺斬られたりしない? 大丈夫?」

 捜してる男――――坂田銀時がこの状況を知ったとして何か言う筈がないのだ。自分で自分を斬るなど、よっぽどの事が無い限り考えられないのだから。神楽は銀時の隣に敷かれている布団に入ると、豆電球に照らされる懐かしい天井を眺めた。

「それよりも自転車、明日も見つからなかったらどうしよう……」

 神楽はまさか夢の中で夢を見るハメになるとは思いもしなかったのだ。このまま目を瞑って目覚めた時、いつものアパートの冷たい布団の中で朝を迎えるのではないか。そんな事を考えたが、真夜中に目覚めた神楽の隣には確かに坂田銀時が眠っているのだった。穏やかな寝息と見慣れた寝顔。神楽はゆっくり体を起こすと銀時に近付いて更に間近で見下ろした。

 これは夢なのだ。なのに銀時の息遣いを神楽はハッキリと感じる。静かに触れた頬には血が通っており、指に掛かる息は生暖かい。だが、それを体で確かめれば確かめるほど現実の冷たさを思い知る。坂田銀時と名の刻まれた墓石。それだけが彼の居場所であった。しかし、生きてるのか死んでいるのかさえも分からない状況は、その存在自体のあやふやさを示していた。どこにも存在していない。神楽はそんな現実が堪らなく怖かった。私さえ忘れなければ良い。ずっとそう思って来たにも拘らず、遂に銀時の顔を思い出せなくなっていたのだ。

「銀ちゃん」

 神楽は小さな声で呟いた。涙が溢れてきて頬を伝っていく。それを手の甲で拭き取るのだが追いつかない。そうこうしている内にその雫は銀時の目蓋の上に落ち、力ない瞳が神楽を映す。

「……眠れねぇの?」

 神楽は慌てて銀時に背を向けるとゴシゴシと目をこすった。

「ノド渇いちゃっただけよ」

  神楽はそう言って立ち上がると、はだけている着物を直すことなく台所へ向かった。

“銀ちゃん”何かあればいつも口にする。それはもう癖のようなものであった。今も寝ている銀時を見て思わず口をついてしまった。きっとこれが夢でなく現実なら、あの後銀時に飛びついて淋しかったと、もう離れたくないと言って……そして銀時の手が神楽の頭を撫でる。きっとそうに違いないのだ。だが、ここは夢の世界であり、今はよそ者なのだ。

 神楽は軽く一杯だけ水を飲むと、銀時のいる寝室へと戻った。

「起こして悪かったわね」

 神楽は小声で布団の中の銀時に言うと、銀時はこちらを見ずに答えた。

「お前さんの捜してる男と俺が似てるって言ったな? てっきりそういう事かと期待しちまったじゃねーか」

 神楽は何も返事することなく自分の布団へと入った。銀時が結野アナなど美女には弱く、とても原始的な誘い方をする事は知っていたのだが、その当事者になったことなど今まで一度もなかった。いつも客観的に見ているだけであったのだ。だが、ここでの神楽は銀時にとって“神楽”ではない。美人でスタイルも良くて、少し影のある一人の女性でしかない。神楽はその事実に気が付くと、どんな対応をすれば良いのか分からなかった。男のあしらい方など心得てはいるが、それは賊や輩相手であって会いたくて堪らない銀時ではないのだ。神楽は心臓を震わせると頭から布団にすっぽり潜ったのだった。

 耳の中で心臓が激しく脈を打っている。体が火照っているが、果たして布団を被っているせいだけなのだろうか。確かに銀時は大切でいつまでも一緒に万事屋で共に過ごしていたい人であったが、今胸を震わせる想いはそんなものとは方向性が違うのだ。男に惚れる事などあまり経験のない神楽でも分かる。これは恋心であると。銀時相手にこんな気持ちを抱くなど、神楽は全く想定していないのだった。そこでふと考える。銀時は神楽や新八がいない夜、いつもこうして女を連れ込んでいたのではないかと。いくら銀時が貧乏でいい加減であると言っても、腕っぷしだけは江戸一と言っても過言じゃない。そんな強さに惚れる物好きも……さっちゃんのように存在する筈だ。それならば恋愛などもしていたのだろうか。銀時も誰かを愛する事があったのだろうか。

 神楽は目蓋を閉じると遠い昔を思い出した。一度だけ銀時が夜の暗がりで女性を胸に抱きしめているのを見てしまった事がある。あれは事故でも何かの間違いでもなく、愛し合う男女の行いだったのは雰囲気で分かった。その時はショックなどもなくどこか冷めていたのだが、今になって思うと何だか悔しくて妬けてくる。しかしその一件以来そういった事もなく、今の今まですっかり忘れていた。きっと遊びだったのだろう。神楽はそう思うともう眠ってしまう事にした。


 翌朝、神楽は目の前の寝顔にここが現実ではなく、夢の世界であることを思い出した。これが現実ならどんなに良いだろうか。しかしどんなにリアルに感じても、ここは夢幻製造機の作り出した偽りの世界なのだ。

 すっかりと乾いたチャイナドレスと下着を身につけると、神楽は自転車を探しに行く為に出掛ける用意をするのだった。

「世話になったわね」

 玄関にいる神楽は起きたばかりの銀時に背を向けてブーツを履いた。まだ頭がハッキリしていないのか、銀時は寝間着の中に手を突っ込んで腹を掻きながらボーッとしていた。

「サド野郎とかあの辺りの連中に聞けば、多分自転車も見つかると思うから」

 その時、神楽の腹がギュルルルとなった。さすがに夢の中とは言え腹は減るようだ。

「食ってけよ。それからでも良いだろ? まぁ、大したもんは出せねぇが――――」

 その言葉通りに居間の食卓テーブルの上に並んだのは、白ご飯と生卵であった。しかし、神楽は全く気にしない。寧ろ久々に銀時と食事が出来ることに喜びを感じている程だ。

「何なの! チャイナドレス着てる奴って皆こんな感じなの!」

 悲鳴を上げる銀時は神楽の平らげる白ご飯の量に驚いているようだった。しかし、神楽は心外であった。これでもいつもより控え目にしているのだ。神楽は4杯目の白ご飯を食べ終わると茶碗を置いた。

「ごちそうさま。じゃあ次こそはもう行くわね」

  そう言ってソファーから立ち上がると銀時の腕が神楽に伸び、いつになく真面目な顔で引き止められてしまったのだ。

「まぁ、待てよ」

 銀時の大きな手が神楽の手首を包んでいて、温もりがジワリと広がる。見つめ合う目と目は互いに何かを期待しているような、とても意味のあるものであった。このまま想いを言葉にして伝えてしまいたい。そう思うのだが自分の存在は明かせないと神楽は奥歯を噛み締めた。

「あ、悪いな」

 銀時は思わず掴んだ神楽の手を離すと、神楽同様立ち上がった。

「一人で行くこたァねーんじゃねぇの?」

 神楽は眉間にシワを寄せると首を軽く傾げた。

「でも、報酬なんて渡せないから」

 そう言った神楽に銀時は待つように言うと、適当に着替えを済ませた。そして、素早く玄関に戻って来ると共に出かけるようであった。そんな銀時が何を考えてるのか神楽は全く分からなかった。

 昔ならこうじゃなかった。きっと銀時の心が見えないのは、離れすぎた時間のせいだと思った。

「馬鹿言っちゃいけねぇよ、お嬢さん。困ってる美女見て放っておくなんて江戸っ子の風上に置けねぇだろ。こういうのはなぁ、金や見返りじゃねぇんだよ」

 いつになく真面目に格好をつけた銀時。神楽は自分に対する銀時の態度に気恥ずかしさを覚えたが、今は助けになってくれることを素直に喜んだ。

「助かるわ。ありがとう……銀ちゃん」

 ブーツを履く背中に神楽は小さく言うと、二人は揃って万事屋から出るのだった。


「だから、変なカラクリのついた自転車って言ってるでしょ」

 神楽は対応に当たった真選組一番隊隊長・沖田総悟に苛立っていた。

 あれから銀時と真選組屯所へ来たは良いが、ふらりと現れた沖田に尋ねたのが失敗だった。どれだけ説明しても彼はこう言うのだ。

「自転車なんてどれも同じだろ。乗れりゃ十分でィ、女と同じで」

 腹が立つ。一発どころか二発くらい殴ってやりたい気分であったが、これ以上問題を起こせば厄介であると神楽は我慢したのだった。

「とりあえず一応、探してやるからこの紙に住所と氏名を記入してくれ」

 神楽は差し出された紙に顔を青くした。なんて書けば良いか分からないのだ。住所も氏名も明かせない。ペンを持った神楽はジッと動かずに一点だけを見つめていた。

「おいおい沖田くん。そりゃあんまりだ。彼女、ちょっと頭打ってまともじゃねぇのは見て分かるだろ?」

「確かに変なカラクリのついた自転車だ、旦那とペアルックだ……まともじゃねぇか。よし分かった。そのど変態さに免じて俺が捜してやらァ」

 銀時なりに助け船を出してくれたのだろうが神楽は怒り心頭であった。どうしてまともじゃないだの、ど変態だのと言われなきゃならないのか。

「今日中に見つけ出さなかったら、あんたのその首へし折ってやるから」

 そう沖田を睨みつけた神楽だったが、当の本人はニヤリと歯を見せ笑ったのだった。

「随分活きのいい女だな。旦那、チャイナ娘と言い、この女と言いどこで拾って来るんでィ」

 銀時は面倒臭そうな顔をすると、いいから仕事しろと言って屯所を後にしたのだった。神楽も銀時の後を追って敷地の外へ出た。

「お前さんを気に入ったところ見りゃ……まぁ、あいつも仕事してくれんだろ」

 沖田が自分を気に入ったなど真っ平御免であったが、今はそんな贅沢も言ってられないのだ。神楽は銀時の隣に並んで歩くと二人でのんびりと町を歩いた。

 自分が成長してから銀時と歩くのは初めてだ。見慣れない位置に銀時の顔があって、神楽は時折その横顔を目を細めて見つめた。好きなのだ。言葉に出来ないほどに胸を焦がす想いが存在していて、一人の男として銀時を愛していた。側に居られるだけで充分だと幸せを噛み締めてはいるが、やはり触れる事の出来る距離にいるのなら、いつかのようにその腕をとって歩いてみたかった。すると、夢なんだから嫌われたって別に良いんじゃない? そんな心の声が聞こえて来る。それに銀時だってこんな美女と腕組んで歩けるなら、きっと喜ぶ筈だ。神楽はそっと銀時の着物の袖に手を伸ばすと軽く摘まんでみせた。

「昔を思い出しちゃった……ほ、ほら言ったでしょ。捜してる人があんたに似てるって。だから……」

 銀時は足を止めると神楽の言葉に目を大きく見開いた。驚くのも無理はないだろう。急にそんな事を言い出すなど予想だにしていなかった筈だ。

 銀時は周囲を見回すと軽く顔を歪めた。

「昨日も言ったけどな、俺にはガキ共がいんだよ。従業員が。そいつらの耳に入ったら色々うるせーだろ?」

 銀時の意外な言葉。ガキ共とは新八と神楽のことで、どうやらその二人を気にしているようなのだ。それだけ銀時にとって新八も神楽も大切な存在で、彼らに嫌われたくないのだろう。神楽はその想いを汲み取ると、思わずニヤける顔を下へ向けたのだった。

「あ、ちょっと! 泣いてんのか? オイ!」

 焦る銀時の声に神楽は表情を作って顔を上げると、軽く微笑んでやった。

「……その子達のこと好き?」

「あ、は? え……そりゃまァ嫌いなら一緒に仕事なんてしてねぇしな」

 神楽は銀時のその言葉に益々嬉しくなると、後ろで手を組むんでご機嫌な足取りになった。直接、銀時の口から聞けるとは思ってもみなかったのだ。だが、これは夢である。自分の都合の良いように時が流れるのは当たり前なのだ。何を喜んでいるのか。神楽はすっかりと夢に居心地の好さを感じていたのだ。このままでは甘えて帰る気を失ってしまうのではないか。その前に自転車が見つかれば良いのだが。改めて神楽は現実に戻れない恐怖を感じた。

「でもな、あいつら昨日今日と町内会のキャンプに行ってんだよ。それにこの人混みなら、まァはぐれるかも知れねぇしな」

 突然、神楽の冷えた手に温もりが与えられた。それが一気に恐怖心を溶かして行く。

「この通り抜けるまでなら、な?」

 銀時から差し伸べられた手を神楽はそっと握ると、二人の鼓動が一つに繋がった。正確には神楽が一方的にそう思ったのだ。ドキンドキンと跳ねる心臓。それは自分だけでないような……そう思っていたかった。

「ホントそっくり」

 神楽が呟けば銀時も照れているのかボソリと言った。

「そりゃどうも」

 同じ着物を着た男女。手は繋がっていて顔もやけに赤い。どこから見ても二人は恋人同士に映る。だが、実際は名前も知らない関係であった。


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覚めない夢/銀神:03


 騒がしい通りを抜けて、スナックお登勢の前に着いてもまだ二人の手は繋がったままだった。離すタイミングを失ったのだ。神楽ももう子供ではない。銀時が何故離さないのか、理由には何と無く気付いている。それが余計に神楽の手に力を加えると、半歩先を歩く銀時がなんとも言えない表情で神楽を見た。

「……自転車、見つからなかったらどうするつもりだ?」

 神楽は銀時を見ることが出来ず足元に視線を落とした。

「源外のジイさんに相談してみる。他にも知り合い当たってみるわ」

「そうか。そう言やさっきも沖田くんのこと、サド野郎って呼んでたよな。あちらさんは覚えてなかったみてーだけど」

 神楽はやってしまったと驚いて顔を上げた。すると銀時のどこか悲しげな瞳に捕らえられて、神楽は目を逸らすことが出来なくなった。

「本当はどこにも行くとこ無えんだろ?」

 神楽の不安を読み取ったのか、銀時は真っ直ぐにこちらを見たまま言った。それには神楽も正直な言葉を口にしないわけにはいかなかった。

「そうかもね……」

 神楽はそのタイミングで銀時から手を離すと背中を向けた。

「大丈夫。別に今夜もあんたに世話になろうなんて思ってないから」

「いや、いいって。新八も神楽もいねーし、どうせ俺も暇してんだから。遠慮すんなよ」

 銀時はそれだけを言うと、万事屋へと伸びる階段を上って行った。神楽も本当は今夜も世話になりたかった。一緒に晩ご飯を食べて、ダラダラとテレビを見て、風呂に入って眠る。そんな普通の特別じゃない時間を過ごしたい。なのに頭に過るのは、銀時の逞しい首や腕や体。それらに触れたいと考えてしまうのだ。今の手だってそうだ。温もりを知ってしまった以上、独りではいやに冷えるのだ。だが、それは甘え以外の何物でもない。いくら居心地が好くともここは神楽の生きる現実ではないのだから。

 神楽が生きる世界は確かに目を背けたくなるような暗く残酷な世界だが、それでも神楽を待っている人達がいた。お登勢や源外、そして何故だか新八の顔が浮かんで来る。それに銀時の居ない世界を嘆いているのは、何も神楽だけではない。そう、つまりはこんなことをしている場合ではないのだった。

「何やってんのよ」

 神楽は万事屋へ帰ることなく再び元来た道を辿ると、昨日自転車を停めた路地裏へ向かったのだった。

 しかし、やはり自転車はここにはなかった。だが、盗まれたり撤去されていれば誰かが見ていた可能性があった。神楽は手当たり次第、道ゆく人に声をかけてみることにしたのだが、残念なことに通りを歩くものは誰一人として自転車の行方を知る者はいなかった。神楽は路地裏へ戻るとハァとため息を着いた。

 もう帰れないの? そんな言葉が頭を巡る。現実世界では今はどれくらい時間が経っているのだろうか。異変に気付いた源外が助けに来て来れないだろうか? 色々と考えたがどうにもならない現状に神楽は思わず叫び声を上げた。

「あー! もう! どこ行ったのよ!」

 するとアパートの二階から中年の男が顔を出した。

「うるせーぞ! 昨日から一体何なんだ!」

 神楽はハッとして頭上を見上げると急いで身を翻し移動した。そのお陰で今回は水を被らずに済んだのだった。

「そうそう水も被ってられないのよ。私も暇じゃないから」

 そんな事を呟いた神楽だったが、ふとある事が頭に過った。もしかすると外の様子に敏感な男のことだ。何か目撃しているかもしれないと駄目元で訊ねてみたのだった。

「ねぇ、聞いて! ここにあった自転車のこと知らないかしら?」

「あ? 自転車? どっかのホームレスが乗って行ったんじゃねーのか?」

 神楽はその言葉に一人のグラサンを思い浮かべた。金に困っていて、売れるものがあればその魂までも売っ払ってしまうような男。神楽はこの世界でも間違いなく奴が棲息しているであろう公園へと向かったのだった。

 しかし、男も自転車も公園にはなかった。それどころかホームレスの姿などどこにも見当たらない。もしかすると夢の中と言うことで沙汰されてしまったのだろうか。神楽は見当違いだったと帰ろうとして、飲みかけのワンカップがベンチに置いてあるのを見つけた。

「これって……マダオのじゃ」

 その時だった。突然、神楽の目の前に自転車とマダオこと長谷川泰三が現れたのだ。

「どういうこと!?」

 この夢幻製造機は時速100キロを出さなければ使用出来ない厄介な作りになっているのだ。だが、それをこの長谷川はどうやら使いこなしてしまったのだ。

「人の自転車、勝手に――――って何その足!?」

 見れば長谷川の足は競輪選手並みに鍛え上げられ、貧弱な上半身と別人のようであった。

「これ、あんたのか?」

 フラフラになっている長谷川は青い顔のまま自転車から降りると、飲みかけのワンカップを一気に呷った。

「つい暇を持て余して時速100キロ目指して自転車を漕いだら……そしたらよ……」

 呼吸の乱れたままで長谷川はやや興奮気味に話した。この自転車を盗んで来たは良いが、妙なカラクリがついていて売れなかったこと。ムシャクシャして自暴自棄になり、スイッチを入れたまま死に物狂いでペダルを漕いだこと。時速100キロまで出せたら競輪選手として年収がっぽりもらえるようなそんな気がして、気力だけで時速100キロ出したこと。話を聞き終えた神楽は、なんて男だと信じられない気分であった。

「それであんたが見たのはどんな夢だったの? 競輪選手にでもなってた?」

 すると長谷川は青い顔のまま首を左右に振った。

「あれは夢だったのか? 今の生活も悪夢には変わりねぇがあっちは……地獄だった……もう二度と御免だ。退廃した江戸の町に奇妙な病気が蔓延して……道端に死人がごろごろ……あれが現実じゃなくて安心したぜ」

 長谷川はそう言うと、自転車はもうこりごりだと喚いて公園から出て行った。

 神楽はとりあえず銀時に自転車が見つかった事を報告しに万事屋へ戻ろうと考えた。しかし、行けば別れが惜しくなるのは分かっている。このまま何も言わずに夢から覚める方が自分の為ではないだろうか。夢が甘ければ甘いほど現実の苦味は増す。神楽は下唇を軽く噛むと自転車へ跨った。

「銀ちゃんはもうどこにも居ないの。だから……」

 帰ろう。そうやって気持ちは前を向いているのにあと一度だけ。もう一度だけ銀時に会いたいのだ。触れることが出来なくても、会話すら出来なくても構わない。神楽はただ顔を見るだけでいいと万事屋に向かって駆け出した。

 息を切らしてひたすら走って、万事屋へと伸びる階段を勢いよく駆け上がって――――明かりの灯る万事屋の玄関に着いた。だが、神楽はチャイムを鳴らすことが出来ない。せめて礼くらいは言わないと。そう思うのにこれで最後だと思うと言葉もうまく出そうにない。神楽は呼吸を整えると気持ちを落ち着かせた。

「大丈夫。泣かない、絶対に」

 しかし気持ちの整理がつく前に玄関の戸が開けられてしまった。

「あんな勢いで階段上る奴、ウチの神楽以外にもいるもんだな。で、どうすんの?」

 神楽はまだ心の準備が出来ていないと慌てて踊り場から下へ飛び降りると、公園目指して走り出した。

「オイ! 待てって!」

 銀時は何の用なのか神楽の後を追って走った。さすがに神楽もそこまで必死に逃げるのもどうかと思い足を止めたのだった。

 日暮れが早いのか、まだ夕方だと言うのに辺りはすっかり暗くなっていた。神楽はぼんやりと灯る街灯の下で銀時と向き合うと、どれくらいかぶりにその顔を見上げた。

「もしかしてアレか? 俺が何か……見返りつーか、そういうの求めるちんけな男とでも思ってんのか?」

 銀時は何の心配をしているのか神楽はよく分からないと返事をしなかった。でも、それだけが黙っている理由ではない。

「…………またその顔」

 銀時は目を細めると神楽を悲しい顔で見下ろした。その瞳は一体何を悲しんでいるのか神楽には分からない。だからなのか知りたいと、その心を覗きたいと、一歩前に踏み込んで銀時に近付いた。

「そんなに俺が似てんのか? 捜してる男に。俺見ると悲しくなるわけ?」

 何を言ってるのだろうか。悲しそうなのは銀時の方なのだ。神楽は銀時の頬にそっと右手を添えると静かに微笑んだ。そしてようやく口を開く。

「その癖っ毛とかいい加減なところとか、美人に弱いところとか、人の頭に鼻くそつける最低なところとか、後は学習しないで二日酔い繰り返しちゃうところとか……もう全部似てるのよ」

 銀時の神楽を見下ろす瞳が何かを恐れるように揺れ動いた。だが、それに構わず神楽は一方的に話しを続けた。

「ねぇ、新八くんと神楽ちゃんのこと大切なんでしょ?」

 銀時は神楽の話についていけないのか、黙ってただ突っ立ているだけで何も喋らない。

「私もね、きっとあの人に大切に想われてたんだと思う。だけどある日突然、何の前触れもなく置いていかれちゃった。もう二度と会えないのかもね」

「……そんなの分かんねぇだろ」

 険しい顔で呟いた銀時は、神楽の手を頬から引き離した。しかし、銀時の手が開かれることはなく、白い手を包み込んだまま神楽に熱を与えた。また懐かしい温もりが広がっていく。

「万事屋に任せろよ。俺らでそいつ見つけてやるから」

 神楽は銀時が自分の手を握った事に心臓を震わせると、赤い頬で銀時を見つめた。どうしてこんなに親切なのか。銀時は美人な依頼者にはいつもこうなるのだろうか? でもその優しさが罪だと神楽は銀時恨んだ。もう引き留めないで欲しいのだ。

「ありがとう」

 神楽はそう言って銀時の手を振り解こうとしたのだが、いつになく真剣な顔をした銀時は離そうとしなかった。初めて見る力強く我儘な態度。神楽の胸の高鳴りは、今までにない程に激しく鳴り響いていた。警鐘を鳴らしている。これ以上は危険だと、帰れなくなってしまうと。

「なんでお前さんを放っておけねぇのか……ようやく分かった。似てんだよ。俺のよく知ってる女に」

 抵抗をやめた神楽は軽く首を傾げると、揺れた髪が街灯のせいか温かい光を纏った。それが銀時の目に入り、まるで瞳が燃えているようであった。それに捕らえられた神楽は一歩も動かずに銀時だけを見ていると、体だけでなく意識までもが吸い寄せられた。確かめたい欲が溢れる。銀時は本当に炎を灯しているのか? 見てるだけでは……もう手の平だけでは満足しないのだ。

 自然と銀時の背中に神楽の腕が回り、銀時の腕も神楽の背中へと回った。体と体が隙間なく重なり、今までの倍以上の熱を感じる。これがただの夢であっても神楽はもう構わなかった。こうして銀時の熱を感じることが出来るなら、偽りであっても充分なのだ。

「この匂い」

 銀時は神楽の首に顔を埋め息を深く吸うと、確信めいたように言った。どうやら匂いだけは誤魔化すことが出来ないようなのだ。

「今日は酢こんぶ食べてないんだけど……」

 神楽は思わずそう口走ると、銀時が小さく笑った。

「誰も酢臭えなんて言ってねーだろ」

 もう隠していることは不可能だろうか? 名前を呼ばれればきっと全て終わってしまうだろう。そうしたら砂のように世界が崩れるのか。それとも神楽が消え去るのか。どちらにせよ銀時により終焉を迎える夢など神楽は絶対に許せなかった。いや、本当はこのまま二人で消えることが出来るなら、そうなっても構わないと思う気持ちもあった。だが、それは銀時の帰りを信じていないと言うことなのだ。この夢が仮に神楽の心を映し出した世界ならば、先ほどの銀時の台詞も神楽が生み出した言葉なのかもしれない。“万事屋に任せろよ。俺らでそいつ見つけてやるから”なんだかんだ言っても悲しい気持ちで生きていても深層心理では、万事屋なら銀時を絶対に見つけ出せると信じているのだろう。諦めてなんかいないのだ。二度と会えないなんて言わない。神楽は覚悟を決めたのだった。しかし、そんな神楽の決意も無駄にしてしまいかねない言葉を銀時は口に出そうとした。

「何があったか知らねぇけど、やっぱりお前……」

 神楽なのか? 

 きっと銀時はそう続けるに違いない。その禁断の呪文だけは唱えさせてはならないと、神楽は銀時の唇に自分の唇を押し当てた。だが、それもほんの一瞬で神楽はすぐに唇を離した。

「言わないで、お願い」

「……何でだよ」

 低い声。神楽は幾度その声で名を呼んでもらいたいと望んだだろうか。今も本当はその声で呼んで欲しくて堪らないのだ。でも、その望みは叶わない。叶えてはならないのだ。神楽は深く息を吸うとフゥっと一気に吐き出した。

「あのね、銀ちゃん。嫌がるかもしれないけど新八くんと神楽ちゃん、いっぱい頭撫でてやってね。写真も出来るだけ三人で撮って。あとは、どこか行く時は行き先ちゃんと言って、それから……」

 銀時は神楽を強く抱きしめると、しっかりとその体を抱いた。

「何なんだよ。なぁ、理由は言えねぇのか?」

 神楽は銀時を見上げると、青い目を細めて笑顔を作った。

「もう、行かなきゃ」

 そう言ってすり抜けるように銀時の体から離れた神楽は、一言喋る度に一歩一歩後退りをした。

「でも、もう大丈夫。信じてるから」

  銀時は神楽を睨むように真っ直ぐに見つめている。だが、もうその手が神楽を掴むことはなかった。

「だから、銀ちゃんも忘れないで。どこに行っても独りになっても、私がいつも想ってるって」

 銀時は頭を左右に振ると一歩足を踏み出した。

「オイ、待てって。分かんねぇだろ。説明してくれよ!」

  神楽は痛む胸に手を添えると、出来るだけ明るい表情を作って口角を上げてみせた。

「心配ないネ、また会えるアル。そうでしょ? 銀ちゃん」

 神楽は銀時に背中を見せると公園まで全速力で駆け抜けた。振り向かない。後ろは見ない。もう泣かない。神楽は走りながらそんな言葉を繰り返した。どんなに居心地が好くとも、所詮これは夢だ。もしかするとこうして夢を見ている間にも銀時が帰って来てるかもしれない。そう思うと早く夢から覚めなければと思ったのだ。心の隅では“そんな都合の良い話なんて……”そう聞こえてくるが、信じる心を取り戻した今の神楽にはそれすらも跳ね除けるだけの希望があった。

 息を切らしながら走った神楽は、公園に着くと急いで自転車に跨った。だが、ハンドルを握る前に唇にそっと触れてみた。

「キス……しちゃったネ」

 随分と大胆な行動ではあったが神楽は後悔していなかった。寧ろ、それがあるから余計に強く生きられる気がするのだ。

 神楽は自転車のカゴに入っているカラクリ装置のスイッチを入れると、時速100キロ目指してペダルを漕ぎ始めた。もう、心残りはない。力強くペダルを漕ぐ神楽はあっという間に時速100キロに到達した。

「って、これやっぱり面倒臭い!」

 次の瞬間、神楽を眩い光が包み込み、一瞬にして視界が真っ白く変わったのだった。


 煙草の煙の匂いとグラスの中の氷が溶ける音。それが神楽の意識に入ると、スナックお登勢の店内に居ることに気が付いた。

「どうだった?」

 背後から聞こえた渋い声に振り向くと、静かに自転車から降りた。あの時と変わらずにカウンターで酒を飲んでいる源外。その隣に腰掛けると神楽は髪を手で払った。

「どうして私を行かせたの?」

 その質問にカウンターの中でグラスを磨いてるお登勢が咥え煙草のまま小さく笑った。それに釣られたのか源外もフンっと笑うも、お登勢を見ることなく飴色の酒を呷りながら答えた。

「おめぇなら戻ってくると分かってたからな」

 確かに神楽はこの現実に戻ってきた。だが、揺れ動く想いは存在した。帰ろうか帰らまいか。銀時と言う存在が神楽の心を激しく動かしたのだ。戻ってくると分かってたなんてどうして言い切れるのか。神楽は買い被りすぎだと思っていた。

「神楽が無事に戻って来たとなれば、このカラクリも完成したと言えるだろうよ。依頼主に納品しても問題ねぇな」

 その言葉に神楽は目を見開くと、身を乗り出して源外を覗き込むように見つめた。

「誰かに頼まれて作ったの? それならもうちょっと簡単に使えるように改造した方が良いわよ。っていうか! 自転車じゃない方が絶対イイ!」

 神楽でも結構キツかったようで、使いこなせた長谷川が異常であったのだと思った。そう言えば長谷川は一体どこへ行って来たのだろうか。気になったが今更どうでも良い。あの夢の世界はもうどこにも存在しないのだから。

 神楽は席を立つと源外に向かって手の平を差し出した。

「報酬。あんなに必死に自転車漕いだんだから弾んでよね」

 すると源外は神楽の手の平をパチンと叩いた。

「いい思いしただろ? してねーのか?」

 神楽はその言葉に銀時と抱き合いキスしたことを思い出すと、顔を真っ赤にした。

「べ、別にそんなこと……全く微塵もなかったわよ」

 夢の中の話など他人に知られることほど恥ずかしい事はない。神楽は追及される前に退散するに限ると、出入口に向かったのだった。すると背中からお登勢の声が突き刺さった。

「銀時には会ったのかい?」

 その言葉に先ほどまで見ていた夢を思い出す。そして僅かに残る銀時の温もりが、まるであれが現実だったのではないかと思わせた。そんな筈はないのに。神楽はひと呼吸置くと、すまし顏を作って振り向いた。だが、その口角は上がっている。

「教えない」

 それだけを言い残すと神楽は店をあとにした。 悲しいくらいに寂れた町。この世界には銀時はいない。だが、神楽は今までと違った。銀時の帰りを信じているのだ。絶対に帰って来てくれると。

 そんな神楽の立ち去ったスナックの中で、早速源外が自転車に手を加えていた。

「あいつ、気付いてねぇらしいな」

 そんな独り言のような声にお登勢が煙草の煙を吐きながら答えた。

「そりゃそうさ。誰がそんなもんで“過去”に行けると思うんだよ。もっとハイテクなカラクリってのがタイムマシンだろ?」

 違いねぇと源外は大きな声で笑うと、自転車のカゴに積まれていた機械を取り外した。

「悪いがちょいと5年ばかり、たまを借りるぞ」

 この後、源外はたまに機械を装着すると5年前の江戸の町に送ったのだった。宛先は坂田銀時。失踪する前に銀時が源外に頼んだのだ。“今”を変えるために過去の自分を連れて来てくれと。だが、そんなことが行われているなど、まだ誰も知らない。過去の銀時と現代の神楽。二人が交わる未来が訪れるまで思い出だけを胸に、その瞬間を生きるのだった。


2014/10/28