の続きです。


渦/銀神:02

「ほら言ったじゃねぇか」
 そう言って俺を鼻で笑う星海坊主の顔がまざまざと思い浮かぶ。別にもう悔しくはねぇよ。ただ神楽の父親の癖にあの時、どうしてああ言ったのか。俺はそれが理解出来なかった。年頃の、それも……まあ器量だって悪くねぇ娘をなんで男の家に預けられるのか。理由があるとすれば、例えばの話だが――――神楽を娶れって意味だとか。そんな風にしか今はもう考えられなかった。

 神楽が戻ってから3日目の夜。俺は居間の自分の机に頭を抱えて突っ伏していた。
 やっぱりっつーのか、案の定っつーのか。神楽との生活は昔のようには上手くいかなかった。いや、そう思ってんのは俺だけなんだろうな。神楽のヤツは大して気にもしてねぇのか、今も寝室に敷かれた布団で熟睡中だ。
「……なんで寝れんだよ。腹立つわ」
 どれくらいか振りに見た神楽の寝顔は俺の不安を掻き消しはしたが、平穏を戻してはくれなかった。他力本願でもどうにかなって来た人生だが、こればかりはどうしようもねぇ。平穏を取り戻すか、はたまた風穴を開けちまうかは俺次第だった。
 でも、もう答えは見えてんだ。神楽を待った2年と半分。あんなに惨めで情けなくてカッコ悪い気分になるとは、俺自身思いもしてなかった。それで十分思い知った。神楽を二度と離しちゃならねぇと。どんな醜態晒してでも、神楽を捕まえていたいんだと。だけどな、それを形にするのは慣れてねぇ。どっかで考える。やっぱり気持ち悪いとか言われるんじゃねーかとか、そんな銀ちゃんは嫌いだとか、まあ弱気にもなるわけよ。
「あーあ! 何なの? マジで」
 何か言わずにはいられなかった。それもまあまあデカイ声で。
 誰に言ったわけじゃねぇ。いつまでも足踏みして何も出来ない自分に対してだ。もうこの気持ちの端には書いてる筈だ。“神楽に惚れてんだ”なんて俺の素直な気持ちが。待ち続けた日々がそれを証明していた。他に女寄せ付けず、ただ一人のガキに執着して。むしろ、惚れてる以外に何があんの? それを言えば神楽だってそうだ。なんで俺の元に帰って来てんだよ。世の中ってモンをまだ舐めてんのか? それともやっぱりそう言うことか? だとすると俺の隣で眠ってんのも……いやいやいやいや! それは無えって! ナイナイ! 考え過ぎだバカヤロー。
 そうは思っても俺は伏せていた顔を上げた。
「え、もしかしてだけどォ!」
 そんなことを叫んで寝室に戻ると、さすがに神楽が布団の中から俺を睨んでた。
「うっさいアル……まだ起きてるアルカ……」
 俺は落ち着きがなく神楽の隣の布団の上に正座をすると、わざとらしく咳をしてみた。
「か、神楽ちゃん。ちょっとだけ良いかな」
 だが、神楽はつれない態度で布団に潜った。
「明日にしてヨ」
 ここで食い下がるべきか。判断を見誤るな俺! 今晩で無理なら明日だって無理な筈だ、そうなると何年先もずっとこんな気持ち引きずりながら生活しなきゃならねぇ。それは避けたい。俺は神楽の布団を無理に剥ぐってしまうと、神楽を表に引きずり出した。
「寒いアル! 布団返してヨ!」
 神楽は怒って俺に飛びかかると本気で俺を殴った。
「オイ! 待てって! ちょっと話を聞け!」
 だが、神楽は眠いせいかやけに暴れる。俺を殴って蹴って殴っての繰り返しだ。それを防ごうと布団から手を離したら、神楽がすかさず奪い取ろうとした。こうなったら俺も足を使わざるを得ない。そうして揉み合ってるうちに俺も神楽も絡まって、気付いたら一番マズいパターンに陥っていた。俺が仰向けに神楽を押し倒す形になった。
「あ、いや……ちげーし! これはマジで偶然で!」
 俺を突き上げる神楽の視線が痛い。怒ってんのか睨みつけるような、軽蔑するような類のモンだ。だが、その顔は襖から漏れる居間の光に照らされて上気しているのが分かった。怒ってるからか?
「やっぱり銀ちゃんおかしいアル。昔となんか違うネ。なんでこんな事するアルカ?」
 喉が絞られる。言葉が出ない。
「私が嫌がってる理由、分かんなかったアルカ?」
 その瞬間、神楽の目に涙が滲んだ。そう言えばこいつは昔からよく泣いていた。感情が豊かなんだろうが、ちょっとした事でビービー泣く癖にいつのまにか笑ってやがる。だが、今の神楽はいつまでも俺を睨みつけ、笑いかけてくれることなんてもう一生ないと思える表情だった。それをようやく認識すると、俺は神楽の上から急いで退いた。
 神楽がどうしてここまで嫌がったか。俺は正直分かってない。その後ろめたい気持ちが態度に表れて、神楽に背を向け座ると頭を掻いた。
「……俺が嫌いならなんで戻って来たわけ?」
 すると背中に枕が飛んで来た。
「なんでそんなこと言うアルカ! やっぱり銀ちゃん変アル!」
 そう叫んだかと思うと声を上げて泣き出した。
 いや、もうホント何なの? マジで全く分んねぇんだけど。だけど、そう言えば益々状況が悪化するのは目に見えている。
 俺は立ち上がると、少し外でも散歩して考えることにした。
「どこ行くアルカ?」
 急に何を思ったか泣きじゃくってる神楽が、立ち上がった俺の寝間着のズボンを掴んだ。
「どこって、そのへんテキトーに……」
「だから、なんでアルカ!」
 いや、なんでまた俺が怒られるわけ? 言葉足らずのバカのせいで俺は全くもって理解が出来なかった。
「俺が居たらお前またイライラすんだろ? それに俺も色々考えてぇことがあんの」
 すると神楽は泣き止んで立ち上がった。だが、顔はまだ怒っていて俺のことを間近で睨んでいる。
「銀ちゃんは何にも分かってない癖に順番すっ飛ばすから私は怒ってるネ!」
 俺の眉間にシワが刻まれた。今、こいつなんつった?
「何にも分かってねぇのはお前だろ! 2年半も待ってた俺の気も知らねぇで隣でスヤスヤ寝やがって!」
 その言葉を聞いた神楽が、途端に沸騰したかのように真っ赤に茹だった。
「じゃ、じゃあどうして欲しかったアルカ!? 銀ちゃんが何にも言ってくれないから私分からんアル!」
「何にもって……お前な」
 とは言ったが確かに俺はこいつにお帰りどころか、特別声を掛けてすらいなかった。まあタイミング逃しちまったのもあるけど、なんて言えば良いのか難しい気持ちもあった。すっと待ってたぞとか、また会えて良かったなんて言葉か? 死んだって言えるわけねぇだろ! つかそんな言葉がこいつは聞きたかったのか? それがこいつの言う順番なのか? 俺はこいつが泣いた理由も言ってることも何一つ理解が出来なかった。
「悪い。神楽。俺からしたら変わったのはお前なんだけど」
 そう言って俺は神楽の両肩を掴んだ。そしてそれを遠ざけてしまえば、距離は益々開く一方だろう。俺はそんなことがしたくて神楽をわざわざ起こしたのか? もう二度と離さないって誓っただろ? 掴んだはいいが、その両手を動かす事も出来ずに神楽の顔を見ているだけだった。
「私の何が変わったアルカ?」
 神楽はそう言うとハッとした表情になって下唇を軽く噛んだ。そして目を泳がせると小さく頷いた。
「確かにちょっとは変わったかもしれないけど、でも中身はなんも変わってないアル」
 その言葉通りに神楽の見てくれは随分と成長していた。まず頭の高さが違う。もう肘置くのに丁度いいとは言えなかった。それに見るのはマズいと分かってるが、パジャマを押し上げる胸とか尻が……まあそのいい具合に育っていた。
「そうだなァ、あとはアレだろ? 重量も増えただろ」
 神楽は無言で俺の足を踏みつけた。
「そいう銀ちゃんだって変わったアル」
 神楽はこっちに更に顔を近づけると、神楽の両肩に置いてる俺の腕は飾りとなった。
「銀ちゃん」
 迫る神楽のせいで俺の背中は襖へと押し付けられた。もちろんそれで神楽の体も俺に密着する。その伝わる生温かさに汗がジワリと滲む。
「神楽ちゃんん?」
 すると神楽はとんでもない言葉を口にした。
「寝てる時なら襲えるとでも思ったアルカ? 私の体ばっかり見てるの知ってるアル!」
 目を閉じる。そしてゆっくり息を吐く。この俺が、この神楽に対してそんな事を考えるとでも本気で思ってんのか。
 俺は両腕に力を入れて神楽の体を遠ざけた。これが正しいタイミングだと信じて。
「あのな、神楽……」
 そこで目を開けるとやや幼く見える少女がそこに居た。
 やっぱりこいつは神楽で、昔となんも変わってねぇらしい。自称宇宙一の美少女で、自称かぶき町の女王で、自称万事屋のマドンナで、自称銀さんの嫁。そうやって言ってんのは俺も知っていた。自信過剰な自惚れ屋。今だってそうだ。俺が神楽に欲情してるとでも思ってたんだろう。それで怖がって布団に潜ってたのか?
「バカバカしいわ。マジで」
「だって!」
 そんなことすれば神楽を再び逃すことになるのは、俺が一番知ってんだ。ましてや自分の過ちで己の欲の為なんざ、後悔してもしきれねぇだろう。
「お前はほんっと何も分かってねぇわ」
 神楽の両肩から手を離すと、いつかのようにあいつの頭の上に手のひらを乗っけた。そして指通りの良い細い髪を乱すように頭を撫でれば、神楽の頬に再び赤味が広がる。
「ぎんちゃん?」
「もしお前に欲情して襲うつもりなら、2年以上も大人しく待ってるわけねぇだろ」
  神楽の瞳が激しく揺れ動く。俺の鼓動もそれに合わせるように速度を上げる。
「ンなくだらねーことで、全部パァにしてどうすんだって話だろ? 分かってねぇのはお前だって言ったけどな……」
 神楽に気持ちをそのままの状態で吐き出す事にまだ照れはあった。だが、こんなものでこいつを引き止めたり、ずっと繋ぎ止めることが出来るなら、俺は言わねぇと後悔する筈だ。
「お前が居ればそれで良いと思ってんの。飯を大量に食おうが、口うるさく叱られようが、酢こんぶ臭くなろうが……お前が万事屋に居ればもう十分なんだよ」
 その中には“好きな男が出来ようが”その言葉を入れなかったのは、もう入れることが出来なかったからだ。神楽を独占したい俺の欲だ。
「お、おうネ」
 神楽は明らかに動揺していた。だがそれを隠そうとしている。もしかするとやっぱり気持ち悪いとか、マジ無理だとか思われてんじゃねぇだろうか。今更、そんな不安が押し寄せる。
「私、ずっと万事屋居るネ。絶対出て行ってやらないアル」
 そう言ってニッと笑う神楽は、もう泣いてはいなかった。きっと本心だろう。神楽の言葉も。それだけが聞けりゃ俺は何も言うことはなかった。

 そうして俺たちは隣り合う布団に入るとゆっくり休むことにした。
「おやすみ」
 俺は穏やかな気持ちだった。平穏が戻って来たことを実感した。こんな日々を過ごすことに罰が当たっちまうような気さえする。それくらい今はもう――――
「ねぇ、銀ちゃん」
 すぐ隣で神楽の声が聞こえた。どうやらまだ言い残した事でもあるらしい。
「何だよ」
 尋ねれば神楽は小声で言った。
「もう銀ちゃんの思ってる事、ちゃんと知ること出来たから、だから……」
  神楽は遂に俺の布団にまで入ってくると耳打ちをした。他の誰に聞かれるわけでもねぇだろ? そうは思ったが、神楽の言葉にその行動の意味を知った。
「わたし、何されても怖くないヨ」
 俺は薄っすらと遠のき始めていた意識を取り戻した。今の言葉の意味をそのまま取るなら、そういう事なんだろう。けど、俺にはそんな気などさらさら無い。いや、マジで全く……
「あーそう。じゃあ、みっちり料理を教え込んでやるからな。覚悟しとけよ」
 すると神楽はクスクス笑いながら俺の腕にしがみついた。
「でも、わたし食べる方が好きアル!」
「知ってんだよ! ンなことは」
 この態度に俺は混乱した。やっぱりただの考え過ぎか? そうだよな。この神楽がそんな意味で言う筈ねぇよな! だが、流れ的にあの言葉の意味はそれ以外に考えられない。今も腕に押し当てられている神楽の体が在って、俺の眠気は徐々に天井へと消えてゆく。俺は目をハッキリと開けると神楽の方へ僅かに体の向きを変えた。
「つーか、何してもいいんだよな?」
「……い、いいヨ。へーきネ」
 神楽の声から緊張が伝わってくる。俺だってさすがに緊張する。何年かぶりに再会した女がすっかりキレーになっちまってて、それが“好きにしてもいい”なんて扱いやすくなってんだ。フーゾクのオネエさんとはワケが違う。どぎついプレイなんてして壊したくない。まあ、神楽ならそう簡単に壊れねぇだろうけど……そういうんじゃねぇんだよ。
 俺は鼻の頭を掻きながら神楽に言った。
「抱きついていい?」
 すると神楽は俺の腕から手を離して、フッと大人くさく笑いやがった。
「それだけでいいアルカ?」
 緊張してたわりに余裕のある言葉だった。それが鼻についたが、まあいいわ。
 俺は神楽を初めて両腕で、足で、全身で抱き締めると髪に顔を埋めた。ゆっくり呼吸をすれば、神楽のシャンプーの匂いが鼻腔に広がる。
「俺と同じもん使ってんのになんでこんなに匂い違うんだよ」
「おっさんと一緒にするナヨ」
 なかなかキツめのジャブに俺は既に目が眩んでいた。いや、実際には神楽の体の柔らかさだとか、匂いだとか、温もりだとか、そういうものに酔っていただけだ。すっと待ってた女だと思うと尚更酔いの回りも早い。そのせいかただ側に居られるだけで良いと思っていたが、たまにはそうじゃない時もあると思い知った。
「神楽」
「ひゃあっ! 銀ちゃんの手……冷たいネ」
 柔肌は滑らかで、俺のものとは全く違った。その違いをもっと見つけたくて、俺は探った。神楽の存在を確かめるように探った。
 その行為の意味だとか、そこに生まれる気持ちだとか、今はもう考えることができなくらいに俺は目の前の神楽に夢中だった。それでも分かる。もう何があっても離さないし、こいつも俺から離れない。安っぽい誰にでも紡げる言葉なんかよりも、もっと確かなものを俺は手に入れた。それを神楽と半分に分かち合ったら……不安なんてもんは消し飛んだ。

 俺は朝陽の差し込む部屋の中にヨダレを垂らして眠る神楽を見つけた。昔と何も変わってないように見えるが、変わったから得られたものもあった。
 俺は脱ぎ散らかしたままになっている寝間着に袖を通すと、誰の許可もなく神楽の体を抱き寄せた。
 いい歳しても“愛”なんてモンは、正直よく分らねぇ。でもそれを神楽となら理解できる日が来るような気がした。
「いってェェェ!」
 寝相の悪い神楽の足に蹴られながらもそんな痛みにどこか笑っちまう、冬の初めの朝だった。

2014/11/24