※5年後(劇場版万事屋よ永遠なれ)

既に姿をくらませた銀時×万事屋グラさん


幸福な消失/銀神※

 

 いつもそうだった。願いは届かない。

 

 銀時は己の手のひらを眺めながら置いて来た全てのものを思い出していた。禍々しく浮かび上がる不気味な紋様。いつからか光と闇は逆転し、体のおおよそを自分ではない何者かが支配し動かしていた。

 死にたいのに死ねない。大切なものが壊れていく様を光の灯ることのない瞳で見続ける日々。それが銀時の核の部分まで蝕むと、いっそ星ごと壊してやろうかと囁く声が聞こえるのだ。

「ケッ、ついに俺もヤキが回ったか。こんなことなら……あいつらに毎月給料払ってやればよかったな」

 銀時は朽ち果てた江戸のシンボルであるターミナルで瓦礫に埋れ笑っていた。まだこうして軽口を叩けるうちは大丈夫だ。そんなもので自分の正常さを確認していた。だがそんな時間も徐々に徐々に短くなる。気付けば意識は落ち、次に意識を取り戻した時、身に覚えのない返り血を浴びているのだ。

 この血は誰のものだ――――?

 それを考える度に銀時は体を震わせ、置いて来た一人一人の顔を思い浮かべる。

 神楽だろうか、新八だろうか、婆さんだろうか、お妙だろうか……

 そうしてどうしようもなく不安に駆られると、銀時は自ら姿を眩ましたにも関わらず、一人一人を確認して回るのだ。馬鹿げた作業だと自嘲の笑みを浮かべるも、確認せずにはいられない。そうして全員の無事を確認するとまた“コドク”と二人で仲良くやる。もう五年もの間ずっとそれの繰り返しであった。慣れたと言えば慣れた。体の痛みなんてものは麻痺してしまっていて赤い血すらも流れなかったが、その中にある魂はいつまでも傷つき痛み、悲鳴を上げているのだが。しかし、それにも耳を塞ぐ。聞いてしまえば最後なのだ。大切な人に会いに行って、それで――――その先は本当の孤独が待っているだけだ。そうなるくらいなら見ているだけでいい。ただこうして何も出来ず、無力な自分を嘆きながら、ただ見ているだけで十分だ。

 

 

 

 今日も朝か夜かもよく分からない暗い天気の中、銀時は廃屋の影から空っぽの万事屋の前に佇む神楽を見ていた。その背中は寂しそうで、神楽も自分の“コドク”と戦っていることが見て取れる。バラバラに千切れた万事屋。神楽の居場所はどこにもない。それなのに新八と決別した神楽がどうしてまだこの星に残っているのか……銀時は理由を知っていたのだ。神楽が決まって溢す言葉。

「銀ちゃん……」

 その小さくか弱い声を聞く度に、銀時は胸が張り裂けるように痛んだ。彼女の頬を伝う涙が誰を想ってのものなのか、それを考えると毎回黒く染まる声が頭に響く。

(出て行ってやれよ。会いたがってるだろ? 神楽ちゃん)

 だが出て行けばどうなるのか分かっている。銀時は奥歯を強く噛み締めるとニヤリと笑う。

「出て行ってどうする気だコラ。あいつに指一本でも触れてみろ……テメェも俺もハゲ親父に殺されちまうぞ」

 すると黒い声は高らかに笑う。強がるなとバカにするように嘲笑う。だが、強がりでもしなけりゃ、やってられないのだ。少しでも隙を見せるとあっという間に飲み込まれるだろう。黒く深い闇の中へと。

 銀時はあまりこのまま神楽を見ていると思わず弱音を吐いてしまいそうだと、誰もいないターミナルへ戻ろうとした。

(それにしても……いい女になったじゃねーか)

 そそのかすように闇が喋った。それに耳を貸す気はないが、湧き上がる気持ちを堪えて唾を飲み込んだ。すると闇は銀時の体を操ろうと力を込める。

「お、オイ、待て! 何する気だ! テメェ!」

 銀時の体は勝手に足を踏み出すと廃屋を出て屋根の上に飛び乗った。そして、万事屋の屋根まで移動すると特殊な力を使い、二階の窓の前に体が浮かび上がる。

(見てみろよ。可哀想に)

 銀時は窓から見える室内の様子に一度強く目を閉じた。知れば知るほどに神楽への同情心は膨れ上がり、どうして誰も側にいてやらないのかと腹立たしい気持ちが生まれるのだ。

 神楽は薄暗い万事屋の居間で埃の降り積もる床に寝転んでいた。何を思っているのか、何を考えているのか。青く冷めた瞳は癒えることのない哀しみを携えていた。

(お前だけだろ? 神楽に喜びを与えてやれんのはよ)

 そんな言葉に惑わされてはいけないのだ。姿を見せたところで、もう二度とこの汚れてしまった手ではあの髪を撫でてやることは出来ない。銀時は空中で強く念じると万事屋の屋根の上へと移動した。少しはまだ闇に染まっていない部分もあるようだ。

「テメェがこの体に棲みついてる以上、あいつは俺に会っても……悲しむだけだ」

 銀時はそう呟くと誰かに見つかってしまう前にかぶき町を離れるのだった。だが、蝕む闇のお喋りは止まらない。

(あの後、神楽はどこ行ったんだろうな。あんなところで寝るつもりか?)

 銀時は冷たい床の上に体を横たえたまま目を閉じていた。言い返せばまた隙を見せてしまう。これ以上相手する必要はどこにもない。

(いや、もしかすると案外男がいるんじゃねぇの? お前も見ただろ、あのでっかい……)

 銀時は目を見開くと両手で自分の首を絞めた。力を込められるだけ込めて、殺すつもりで強くキツく。

「ゲホッ、ゲホ……」

 しかしそれは内に棲まう闇によって妨げられた。

(テメェ忘れたのか? 死ねるわけねーってことを。もうこの体動かしてるのは俺なんだよ。もし次それやったらな…………神楽襲って食っちまうぞ)

 銀時は涙を流しながら、すっかりと崩れ落ちてしまった天井を眺めていた。殺してやりたいのに、どうやったって己を殺すことは出来ないのだ。悲哀、悵恨、絶望。弱々しく天井に向かい手を伸ばしながら、思わず口をついた。

「殺して……くれ……」

 だが、魘魅が蝕むこの体では絶対に死ぬことは出来ない。己に殺されるまで、永久に孤独を味わわなければならないのだ。銀時は再び目を瞑った。眠れるわけではないが、せめて夢くらい見たいと。夢の中だけでも、この苦しみから解放されたいのだ。安らぎのない生き地獄で、銀時は性懲りも無く願っていた。叶うことはないと知りながらも。

 

 その夜、江戸の空に一筋の光が尾を引いて流れた。小さな石だったのか、一瞬で燃え尽きたが、泡沫のように儚い望みを叶えてくれたのだ。

 

 

 いつの間にか眠りこけていた銀時は柔らかい光の中で目を覚ました。いや、正確にはどれくらいか振りに夢を見たのだ。軽く感じる体と包まれる幸福感。ぼやける視界の前に手のひらをかざしてみるも、その手に染み付いていた紋様は消え、呪縛から解き放たれたように全てが明るく見えていた。

「そう、へえー……こんな感じなの?」

 自由に動く体。思わず微笑んでグッと前方に手を伸ばすと――――何かに触れたのだ。白くて明るくて鮮やかに光る何かに。それは温かく、耳を澄ませば音が聞こえた。

「すぅ……すぅ……」

 銀時は徐々にはっきりと見え出す目でそれが何であるのかを確かめた。触れているのは白く柔らかな人間の皮膚であり、鮮やかに広がる朱色は人間の髪であった。

「神楽?」

 銀時は目の前で横たわっている人間が神楽である事に気が付くと、ゆっくり目を閉じてその身を引き寄せた。そして胸へ押し込め、髪を撫でつけると、再び眠りについた。

 今ならもう、くたばっちまっても……

 そんな言葉を残して。次に目が覚めた時、死よりも冷たく暗い闇の底であっても、己に殺される日が来るまで、どうにか、どうにかやれると思ったのだ。この幻を糧に。

 しかし、再び目を開けた銀時は不思議にもまだ夢の中であった。神楽は変わらず胸の中に――――――その姿はもうなかった。銀時は横たえていた体を起こすと、眠っていたこの場所が万事屋の室内であると気がついた。だが、埃一つない。畳の上に転がっていたのだが、五年前と何一つ変わっていなかった。それは天井や窓、襖、ジャスタウェイの目覚まし時計。そして、自分の体。どれもこれもあの時のままだ。

「どう、なってんだ?」

 銀時は立ち上がると居間へと出た。だが、そこはガランとしてあるだけで、非常に寒々しいものであった。使い込んだ机をゆっくり撫でると、手のひらに懐かしい感触が蘇る。やはりここもあの頃と何一つ変わっていない。主を失い五年と言う歳月が立ったようには思えなかった。

 やっぱり、夢か。

 銀時はそんな言葉を胸の中で呟くと、目の前にある窓の外を覗いてみた。灰色の空。色を失った街。ひとっこひとりいない。もしかするとこれがずっと望んでいた“死”と言うものなのかもしれない。銀時はそんなふうに考えた。もしそうであれば思っていたよりも苦しみがないな、などと呑気なことを思った。実感が無いのだ。自分と言う存在が消失したなんてことを。今だって喉が渇いただとか、腹が減ったなんていう欲求が絶えず生まれてくる。銀時はあくびをして頭を掻くと居間から廊下へと出た。そして、台所へ着くと――――――風呂場から何か音が聞こえて来た。ふらっと何気なしに覗けば、自分の着物とよく似た服が落ちており、傍らには女性の下着もあった。銀時はそれを拾いあげると、まだほのかに温かいことに気がついた。

 まさか、いや……なわけねえよな……

 そんなことを思っている時だった。風呂場の戸が開いて、一人の女と目が合ったのだ。

「あっ……」

「えッ……」

 互いに言葉が出ないようで、しばらく沈黙が続いた。バスタオルを体に巻いて立っているのは、紛れも無く神楽で……だが、銀時がそれを理解するのに数秒を要した。思考回路が繋がった頃には胸に神楽が雪崩れ込んでいて、何も言わず静かに体を包まれていたのだ。

「か、ぐら? 神楽、だよな?」

 するとようやく神楽は顔を上げて小さく言った。

「そう、神楽。銀ちゃん、神楽よ」

 こちらを見る瞳は激しく揺れ動いており、だが同様に銀時の瞳も揺れていた。夢にしては、妙に感触がはっきりとしており、まるで現実のように感じるのだ。だが、よくよく考えてみれば分かる。神楽の下着を持って、風呂の前で突っ立っていたと言うのにぶん殴られもしないのだ。

「夢だと思った。目が覚めると銀ちゃんが隣に居て……」

 神楽が妙なことを言うものだから、銀時は笑った。

「何言ってんだよ。夢だろ? どう考えたって」

 すると神楽の目が細くなり、遠くを見つめて言った。

「そう……よね……」

 だが、背中に回った神楽の腕の力や柔らかな肉体。息遣い。全てが夢とは思えないほどに身近に感じる。やはりこれは夢ではないのだろうか……と考えることすら馬鹿らしい。今はそんなことよりも、ただただ神楽を感じていたい。“コドク”からひとときでも抜け出せたのだから。

「ずっとお前を見てた。ほんと、ずっと」

 神楽は先程から肩に顔を埋めており、小さく頷くだけだ。だから銀時は神楽の髪を撫で付けると頭に口唇を寄せた。

「もう大丈夫だから」

 誰にも頼らずに生きる神楽にずっと言ってやりたかった。そう言って安心させて、片意地張らずに誰かと寄り添って欲しかったのだ。もう俺を待つなと。

「伝わるとは思ってねえけど、お前がまた笑ってくれることを俺は願って――――」

「笑えるわけないでしょ。銀ちゃんがいないのに。少しも楽しくないんだから」

 間髪いれずに神楽はそう言うと顔を見せずに体を離した。そして着替えるからと銀時を追いやった。

 

 居間に戻った銀時は、誰も居ないように見える窓の外を椅子に座り眺めていた。静か過ぎるのだ。人など、銀時と神楽以外存在していないように思えた。都合の良い夢世界。先ほどの神楽の発言も全てが自分の望むものとして描かれている。そんなふうに感じた。どこかで思っていたのだ。いつまでも俺を忘れないでくれと。それが先ほどの神楽の言葉であるのなら納得できた。しかし、神楽に幸せになって欲しいと願う思いも本物である。嘘偽りのない本当の気持ちだ。だが、その願いの前に一言つくとしたら『俺の手によって』そんな言葉がつくだろう。出来ることならそうであって欲しいのだ。出来ることなら。

「銀ちゃんは入らないの?」

 神楽の声が聞こえて振り返ると、居間の入り口からこちらを見ている神楽が居た。

「いや、今入る」

 銀時は立ち上がると居間から出ようとして神楽の正面に立った。しかし、神楽は道を譲らず悲しそうな顔でこちらを見ていた。

「なんだよ」

 銀時は眉間にシワを寄せると神楽に言った。そんな表情をされるとあまりにも辛いのだ。すると神楽は一度俯いて……そして、再び顔を上げた。青い目に涙を溜めて。

「居なくならないで……お願い……ぎんちゃん……」

 そう言って着物を握ってきた神楽に、胸の奥に熱い風が吹いた。夢の中でもこんなにも神楽を悲しませている自分への憤りと、すがる神楽の愛しさ。銀時は神楽を抱きしめようとして両腕を神楽の背中に回したが、やはりそれをやめるのだった。

「バカヤロー……泣く奴があるかよ……これは俺の夢なんだよ。それなのに俺が居なくなってどーすんの?」

 銀時はそれだけ言って神楽の頭を軽く叩くと、わざと明るい調子で風呂場へと向かった。

 

 不安なのはこちらの方だ。風呂から上がって神楽が消えていたら。夢と言う不安定なものなのだからありえない話ではない。銀時は適当に体を洗うと、急いで風呂から上がった。堪らなく怖いのだ。慌てて着替えを済ませると、ろくに髪も乾かさずに居間へとすっ飛んでいった。

「神楽」

 戸を開ければ神楽は静かにテレビを観ていた。

「銀ちゃん」

 そう言って目配せをしたものだから、銀時は視線をテレビへと移した。流れている番組はスライドショーのようなもので、よく見知った者たちが映っていた。音楽もなく、ただ淡々と画面が切り替わる。思い出の断片のようなものなのだろうか。銀時は懐かしいと見入って、思わず神楽の隣に腰を下ろした。

「あいつら……」

 スナックお登勢のメンバーや他にもよく知っている連中が映る。その中には新八の姿もあった。

「しんぱち……」

 神楽が呟いた。思い起こせば、神楽と新八は銀時が姿をくらまして間もなく仲違いしたのだ。それも全て銀時は知っていた。ただ見ているしか出来ない自分に歯がゆさを覚え、己の無力さを痛感したのだ。

 銀時は神楽の横顔を見ながら言った。

「どうやっても、もう無理なのか?」

 それに神楽は何も答えずテレビを消した。そして、悲しい色を携えた目が銀時を映す。

「ねぇ、お腹空いちゃった……何か食べるものあるかしら」

 そういえば銀時もやけに腹が減っていると、台所の冷蔵庫を覗くことにした。

 

 冷蔵庫に入ってあった食材で適当に食事を済ませると、銀時はどれくらいか振りにいちご牛乳を飲んだ。

「うめェ……」

 体に染み渡る甘さとミルクの匂い。それを窓際の椅子に腰掛けながら飲んでいる銀時は、目の前で窓の外を見ている神楽を見上げていた。

「何か見えたか?」

「ううん、なんにも」

 不思議そうに首を傾げた神楽に銀時は緊張した。これは自分が神楽と二人だけの世界を望んでいた結果なのかも知れないと思ったのだ。

 神楽と二人だけの夢で、俺は一体何をしようと――――

 心の奥底に眠る、まだ自分でも気付かない気持ちを悟られてしまわないようにと、銀時は神楽から目を逸らした。

「みんな、どこ行っちゃったのよ」

 その言葉に胸が痛んだ。床を見つめた銀時はなんと答えようかと悩んだ。これは俺がお前と二人で居たいと望んだから……などとは、夢の中でも到底言えないのだ。どうせ幻なのだから好きにすれば良いと思うのだが、この瞬間を壊したくないと余計なことはしなかった。

「でも、私…………」

 神楽は何かポツリと言いかけて、結局黙ってしまった。それのお陰で銀時も何も答えずに済むと、二人はしばらく風すら吹かない窓の外を眺めているのだった。

 それからまもなくして、神楽はソファーへ移動すると、コロンと膝を抱えたまま転がった。そんな姿は昔と少しも変わっていなくて、銀時も思わず頬を緩めた。

 何もない、静かな時間。自分の存在すら不確かで、どこか不安になるのだが、それでも今は一人ではない。幻であっても、僅かに安らぎを与えてくれた。

 強く願っている。壊したくないと。少し退屈だが、この緩やかな世界が永遠に続く事もそう悪くないと感じているのだ。それなのに今銀時の目に映っているのは、自分の着物に身を包み、そのまとった衣装から白い腿を覗かせている神楽である。そこから目を離せず、だが視線が流れるのは仕方のないことだと、銀時は自分の顔色に気付かずに神楽を見つめていた。

「銀ちゃんでも、そんな顔するのね……一体、何見てたのよ」

 どこか意地悪く笑った神楽がそう言って体を起こすと、銀時は静かに視線を逸らした。

「ねぇ、ちょっと散歩してくる。外が気になるから」

 そう言って立ち上がり背伸びをした神楽をなんて事ない顔で見ているのだが、動悸の激しさに胸が痛んだ。もし、このまま神楽が戻って来なかったら。そんな不安ばかりがつきまとう。

「行くな」

 何かを考えるよりも先に言葉が飛び出し、それには神楽も目を見開いて驚いていた。銀時もこんな事を言う自分に驚いたが、何よりも気不味さの方が先に立った。

「あっ、いや、そうじゃねえ……あれだ……」

 色々と言い訳を探したが、何を言った所で今の自分の気持ちなど神楽にバレてしまっているだろう。そう思うと弁解する気が失せた。銀時は飲んでいるいちご牛乳のパックを机に置くと立ち上がった。そして、神楽の元へ行くと癖の強い銀髪を掻いた。

「お前が俺の視線とか、そういうのが気に入らねえっつうなら謝るわ。謝るから、だから……ここに居てくれ」

 こんな言葉を恥ずかし気もなく口にする。気でも触れたのかと思われるかも知れないが、変な意地はもうこの世界では必要ない。些細な夢を見ていたいのだ。神楽の温もりを感じて。

 銀時はやけに重く感じる腕を動かすと、神楽の二の腕を強めに掴んだ。神楽の表情が崩れて困ったような顔をする。

「そんなこと言われなくても……分かってるわよ……」

 神楽の目に涙が浮かぶ。それが何を意味しているのか、銀時にはわからない。ただの幻だと言うのに目の前の神楽には血が流れ、熱を感じるのだ。まるで意思を持って生きているかのように。そうだとしたら、この涙には――――

「あのね、銀ちゃん。私、今……幸せだって思ったの……」

「そう」

 軽く頷いて銀時は話を聞いた。

「みんなもどこか行っちゃって、ここがどこかも分からないのに……それなのに、銀ちゃんが居るだけで私は……」

 そこで神楽の大きな目から涙が溢れると頬を伝った。それが肌を滑って顎まで流れ落ちる。口唇は震え、途中から何を言っているのか聞き取りづらかったが、それでも神楽が何を言おうとしているのか。銀時は分かってしまった。再び胸に熱く焼け付くような風が吹き込む。

「銀ちゃんが居るだけで、他に何も要らないって……思っちゃった」

 銀時は神楽をゆっくりと引き寄せると、静かに抱き締めた。そして、何度も何度も髪を撫でて、腕の中の存在を確かめた。洗いたての髪の匂いやそこに混じる女の香り。それを肺いっぱいに取り込むと目眩すら覚えた。やはり神楽は間違いなく同じ空間に存在しているのだ。

「いいだろ、別に。もういいだろ、それで」

 俺も全く同じことを考えた……

 銀時はそれを神楽の頭へ寄せた口唇に込めると、目を閉じて心地の良い温もりをより一層強く感じるのだった。

 

 窓を揺らす風もなく、時計の秒針すら聞こえない。ただ神楽の小さな呼吸と自分の心臓の音だけが聞こえる。静かな世界。無常と言う概念すら分からなくなる。それが不安を駆り立てると、銀時は僅かでも良いから何か“確かなもの”を求めた。ただの夢幻に欲深くなり過ぎだと分かってはいるのだが……。

「神楽」

 自分の名前を呼ばれたからか神楽は銀時の肩に置いていた頭を上げるとこちらを見た。その目はもうすっかりと乾いて見え、ただ銀時の真面目な顔が映っているだけである。

「これは夢なんだろ?」

「そうね、じゃなきゃ説明がつかないじゃない」

 神楽の手が銀時の肩に置かれる。こちらを見る顔にはほんの少し紅が散らされた。この距離のせいだろうか。銀時もただの“仲間”が踏み込む領域でないことは知っている。その上で神楽を招き入れ、神楽も踏み込んでいる……筈なのだ。

 言葉もなく見つめ合う。それが不自然ではもうなくなっていた。互いの想いは既に隠せていると言える状況ではない。

「なら、くれよ。何か俺にお前を残してくれ」

 それさえあれば、もう一人になっても怖くない。そう思ったのだ。どうせ夢はいつか覚めるのだから。

「私に残せるものなんて……何一つないよ、銀ちゃん」

 不安そうに眉間にシワをつくる神楽は、肩に置いていた手を銀時の頬へ伸ばした。冷たく微かに震えている手が神楽の心を表しているようだ。銀時はその手を包み込むように自分の手を重ねるとゆっくり頬から剥がし、神楽の手を握った。

「もう怖くねえなんて思ってたが、やっぱり……そりゃあ……最後は……」

 銀時はニヤリと笑ってみせた。やはり怖いのだ。消失の時を迎え入れる準備は出来ていた筈なのだが、いつか来る終わりを考えると……辛い。だが、現実世界の全てのものを護るために己は滅びなければならなかった。ただそうなる前に、目覚めた後も寂しくないように、銀時は錆びない光が欲しいと望んだ。

「一人で暗い闇の底なんてトコに居るとよ……どんなもんでも黒く染まっていくんだよ。だから、せめて希望っての? コップ一杯分で良いから俺にくれよ」

 銀時はそう言って神楽を抱え上げると隣の部屋へ移動した。そして畳の上に神楽を寝かせると、その横に自分も体を転がした。

「これでもう、いつ迎えに来ても……」

 怖くない。

 銀時は寂しくないように、忘れてしまわないようにと横たわっている神楽を抱き寄せた。

「もう一緒には居られないの? また私達を置いて遠くへ行っちゃうの?」

 神楽が息を吐くように言葉を紡ぎ出せば、銀時は更に強く胸に押し込めた。

 否定したい。もう二度とどこへも行かないと、側に居ると言ってやりたかった。だが、それは叶わない。いずれここに存在する坂田銀時は消失するのだから。

「……いや、いやよ、そんなの」

 聞き分けの悪い子供のように神楽は首を振ると、銀時の胸の上に体を乗せた。そしてこちらを見下ろすと…………神楽の熱い息が口唇にかかる。白い肌に青い瞳、そして桜色の口唇。今まで見たどんなものよりも美しく、そして儚い。銀時はようやくここが夢であると実感したのだった。

「大丈夫、またいつか会えるって。ほら、笑ってみ?」

 銀時はそう言って神楽の後頭部に手を添えると、額と額を引っ付けた。コツンとぶつかって、そして懐かしい空気が流れる。

「昔はお前、よくこうやって俺の頭をかち割る勢いでやってただろ?」

 すると、神楽が僅かに頬を緩めた。

「本当にかち割ってやろうと思ってやってたの」

「あー、そうなの? 通りで……」

 そこで神楽と視線が交わって息が止まった。呼吸が苦しい。今、胸にこみ上げる想いはきっと神楽も同じだろう。今も昔も、この先もずっと。

 柔らかな光が窓の外から射し込んで、部屋が白く輝き始めた。もうタイムリミットは近い。銀時は何も言えずにただ神楽を見つめると、安心させるように微笑んだ。

「もう行くわ。だけど、これだけは忘れんな。俺が居なくなってもお前は……」

 その言葉を遮るように神楽が口唇を塞いだのだった。短い口づけ。途端に視界が光を散らした。銀時は思わず目を閉じて――――の隙をついて神楽はもう一度銀時の口唇を塞ぐと二人の舌がもつれ、絡まり、そして解けていった。

「銀ちゃん」

 銀時の視界はどんどんと光に侵食される。眩しくてもう目を開けていられない。抱いている体も触れている口唇も、撫でている髪も全てがすり抜けていく。

「神楽、お前は一人じゃないってこと、忘れんなよ」

 かすれる声で呟いた銀時はその言葉が神楽へ届いたかどうか、その答えを知らずに全てが白に染まる世界に飛ばされた。そして、急激な落下と共に光が剥がれ落ちていくと、瓦礫の山の上で目を覚ました。埃臭い湿ったニオイと薄暗い室内。染みだらけの天井と冷たい体。手には不気味な紋様が浮かび上がっている。体は重く、何層にも重ねられた鎧を身に着けているようだ。だが、そう気分は悪くない。どれくらいかぶりに夢を見たからだ。まだ体の中心、奥の方が温かい。絶望の中にも希望は咲き、そして絶望の中で希望は枯れるのだ。もういつ“死”が訪れても受け入れられる――――――

「だから、早く俺を殺してくれ……」

 それから間もなくのことであった。未来から来た自分によってその願いが叶えられたのは。銀時は幸福であった。己の消失こそがこの世のためだと信じていたからだ。だが、一つ誤算があった。踏みにじられたと思っていたが、希望は枯れていなかったのだ。どんなに絶望的な状況でも銀時を生かす為に、抗って、もがいて、先へ進む仲間達が存在した。それを知らずに銀時は目を閉じたのだった。

 

2016/01/21