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レッスン!:01

 

 志村新八、21歳。高校卒業後は地元の大学に進学し、夢である教師を目指しながら日々勉学に励んでいた。気難しい性格と笑顔の乏しい表情。それとどこか中二病臭い佇まい。少々近寄り難い印象を与えはするが、家庭教師としてアルバイトをしているのだった。

 

 新八は今日もある生徒の自宅へと向かっていた。その生徒とは銀魂高校に通う神楽と言う学生で、この辺りで彼女の名前を知らないものはいなかった。確か先月号の何かの雑誌にも、スナップ写真が載っていた筈だ。

 彼女の住むマンションに着いた新八は、黒いスーツに合わせて買った青いネクタイを締め直すと、部屋の呼鈴を鳴らしたのだった。すると、少し待って少女の声が聞こえて来た。

「誰? 新八? 今、開けるわ」

「新八先生だろ」

 新八は不機嫌そうな表情で既に切れてしまったインターフォンに喋ると、掛けている眼鏡を指で押し上げた。

「今、忙しいんだけど」

 神楽はそう言いながらドアを開けると、新八を家の中へと通した。

「何が忙しい。どうせまた大食い大会の打ち合わせでもしていたんだろ」

 新八は靴を脱ぐと、夕方過ぎにも拘らずまだ制服姿の神楽を鋭い目で見つめた。

 神楽はと言うと何やら携帯電話で話をしていて、次はラーメンが良いとか米は硬めが好きだとか食べ物の話をしていた。そして、適当に電話を切ると玄関に突っ立ったままの新八に言った。

「いつも言ってるけど、卒業したら大食いアイドルとしての契約が決まってるの。だから、勉強なんて必要ないって言ってるでしょ。なんで来るわけ?」

 新八はその言葉を無視すると、神楽の部屋へと勝手に向かった。

 正直、神楽には手を焼いていた。彼女の父親が新八を雇ったのだが、父親は進学を望んでいて、何がなんでも大学を受験して欲しいようだった。しかし、神楽本人にその気はなく、大食い界隈で名を轟かせている実力者なだけに、芸能事務所に入って大食いアイドルになりたいようであった。

 新八としてはお金さえ貰えれば、どちらでも構わないと言うのが正直なところであったが、確かに神楽の大食いの才能は凄いものだと思っていた。

 

 新八は神楽の部屋へ入ると、ドアから一番遠い角にある学習机の椅子に座った。神楽の部屋は女の子らしくファンシーな家具や雑貨で溢れており、たまによくわからない“ピン子”と書かれた色紙などが目に付くが、男が一人でいるにはどこか落ち着かない空間であった。

 新八は部屋へとまだ来ない教え子に溜息を吐いた。

 顔が可愛いのがなんだ。スタイルが良いのがなんだ。たまに優しいのがなんだ。女子高生がなんだ。

 新八は神楽に対し、強く言えない自分に嫌気がさしていた。いつまでも勉強をする気のない神楽に家庭教師を辞めてしまおうかとも思ったが、給料は決して悪くない。求人の出ているアルバイトとは、比べ物にならないくらい貰っている。そんな事もあり、新八は神楽の家庭教師を辞められないでいるのだった。何よりもいずれ教師になれば、こんな生徒は一人や二人ではないだろう。今から逃げていてどうすると、どこか修行のように思っていた。

「ねぇ、新八。パピーが晩御飯は出前取りなさいって――」

 部屋のドアが開くと、神楽が口をモグモグと動かしながら入って来た。新八は体ごと神楽の方を向くと、呆れたような態度を取った。

「貴様は先生と呼べないのか。とりあえず今日返って来たテストを見せろ」

 神楽は不貞腐れたような顔で分かったと言うと、鞄の中からテストの答案用紙を数枚出した。しかし、残念な事にどれも良い点とは言えず、新八はいつも教えている事が何一つ身についてないと嘆くのだった。

「よく平然としていられるな。貴様の担任はこれを見て何も言わないのか!」

 神楽はベッドに腰掛けると、髪を耳に掛けた。

「別に。あんたがうるさ過ぎるのよ。だってそうでしょう? 進学するわけじゃないんだもの」

「うるさいとは何だ。そもそも貴様の父親は納得しているのか? 神楽が思っている程、アイドルの世界は甘くないんだぞ」

 新八は眼鏡を曇らせると、かつて親衛隊まで務めたアイドルが今ではモザイク処理をされ、金を得ている現実を頭に思い浮かべていた。

「芸能事務所に入ったは良いが、売れなくなりひん剥かれるアイドルがどれ程いると思っている」

 神楽はベッドから立ち上がると、新八の隣の椅子に腰を下ろした。

「……別にあんたに心配されなくても、それくらい分かってるんだからねっ」

 そう言った神楽は引き出しからノートを出すと、シャープペンシルを手に取った。その様子を新八は黙って見ていたが、眼鏡を指で押し上げると薄ら笑いを浮かべた。

「変な想像してんじゃないでしょうね! 早く教えなさいよ」

 神楽の言葉に新八は眉間にシワを寄せるも、少しはヤル気を出したような神楽に気分は悪くなかった。

 

 

 

 何を教えても怖い顔で睨まれる。新八は先ほどから、ずっと同じ問題を解いている彼女に疲れ果てていた。

「何故そうなる。俺の説得を聞いてなかったのか!」

「あんたの教え方が悪いんでしょ! パピーからお金貰ってるんだから、しっかり働いてよね!」

 神楽が机に向かってから一時間。ストレスが溜まっているのか、神楽の苛立ちは隣の新八へと向けられる。

「……一度、休憩だ」

 新八はテキストを閉じると神楽の側から離れた。このまま続けていれば、喧嘩になるのが目に見えているのだ。

 新八は椅子から立ち上がり、机横の窓際に立つと眼鏡を外した。そして目と目の間を軽く摘まむと、溜息を吐きながら凝りを解した。

 神楽はと言えば背後のベッドへと寝転がり、出前のメニューを見ながらどこか気だるい雰囲気を出していた。“もう終わりにしたい”きっと、そう言いたいのだろう。

 確かに神楽にしては頑張った方だと新八は感じていた。問題こそ解けなかったが、椅子にじっと座り酢昆布ではなく、シャープペンシルを握っていたのだ。

「ねぇ、新八」

 神楽の声に新八は眼鏡を掛けると、再び鋭い目つきで神楽を見た。

「貴様は何度言えば分かる。先生と呼べないのか」

「あー、うるさい。それより何食べるの? お寿司の出前でもとる?」

 ベッドの上からこちらを見ずにそんな事を口にした神楽は、短い制服のスカートから伸びる脚をバタバタと落ち着きなく動かしていた。その危なげな動きに新八は言葉を失うと、唾を飲むのも忘れてその動きを見つめていた。

 右脚が下がれば左脚が上がり、僅かにスカートの裾が揺れる。

 あの隙間の向こうには何がある?

「ねぇってば、聞いてるの?」

 こちらに向けられた神楽の視線にようやく我に返ると、新八はうるさく跳ねる心臓を悟られないように平常心を装った。

「今考えていたところだ」

 結局、何も考えていなかった新八は、神楽に流されるがまま少しの休憩がそのまま食事タイムとなると、その日の授業は終わりとなってしまったのだった。

 

 ダイニングの食卓テーブルで届いた寿司を食べながら、新八は目の前の神楽の食いっぷりに呆気にとられていた。

「パピーも本当、何にも分かってないわ」

 神楽はやけ食いなのか、どこか寿司を口に放り込む手が乱暴であった。

「銀ちゃんは“お前が大食いアイドルになったら、結野アナ紹介しろよ”ってすごく応援してくれてるのに」

 それは利用する気だからだろと新八はツッコミを入れたかったが、そういう自分は大学デビュー時に捨てた事を思い出しグッと堪えた。

「それに私は勉強よりも……今しか出来ない事をやりたいだけなのに」

 神楽は桶に入っていた寿司を全て平らげると、そんな事をボソリと呟き湯呑みを持った。

 勉強よりもやりたい事?

 新八はおしぼりで手を拭くと、ずれ落ちた眼鏡を指で押し上げた。

「聞き捨てならないな。勉強よりも大事なことだと? 先生である俺の前でよく言えるな。貴様は喧嘩を売っているのか?」

 神楽はお茶を飲み終わると、怪訝な顔つきで首を傾げた。

「今は授業中じゃないし、そもそもあんたを先生だなんて思った事ないから。私が先生だと認めるのは銀ちゃんだけ。勘違いしないでよね」

 神楽はそう言うと席を立ってキッチンの奥へと向かった。

 ダイニングに残された新八は腹を立てるも涼しい表情をしており、大人ぶって堪えていた。内心は可愛ければ何言っても許されると思いやがって。そんなことを思い、はらわたは煮えくり返っていた。

「新八には分からないでしょうね。アイドルになったら出来なくなる事が色々あるのよ」

 神楽はそんな事を言いながら、キッチンからアイスキャンディーを咥えて戻って来た。そして、ダイニング横のリビングでソファーに座ると、それをペロペロ舐めていた。

「よくあるじゃない? ウェンズデーかサーズデーか忘れたけど、友達と遊んでただけでも週刊誌にスクープされたりなんて事」

 新八は額に手を当てると肩を落とした。中学の英語からやり直させなければならないと。

「だから、卒業までは遊びたいの。勉強してる時間がもったいないでしょ?」

 神楽の考えが分からない事はなかった。アイドルとして芸能界へ入るとなれば、地元の友人とも離れ、なかなか会えなくなってしまうだろう。そうなる前に思い出をたくさん作りたいと言う気持ちが理解出来ないわけではない。ただ、大食いアイドルに、そこまでの処女性が求めるもなのかと疑問に思っていた。しかしどっちにしても新八は、だから遊んで良いとは立場上、言えないのであった。

「俺は貴様に勉強を教えるのが仕事だ。その考えを受け入れるわけにはいかない」

 神楽はそんな当たり前の事を言った新八に何を思ったのか、ソファーから立ち上がりこちらへとやって来た。そして、隣の椅子に腰掛けると新八にアイスキャンディーを突きつけた。

「いいの? そんな事言ってると、パピーにない事ない事言って、アルバイトを辞めさせることも出来るんだから」

 新八は額に汗を滲ませた。暴行されたなどと嘘を吐かれでもしたら、アルバイトどころか人生を辞めなければならない。なんて恐ろしい女だと、新八は神楽を睨みつけた。

「あんたが私の酢昆布をしゃぶったとか、定春のドッグフードを横取りしたとか……パピーに言われたくないでしょ?」

 その言葉に別の意味で驚愕した新八は、神楽を再度睨みつけた。

「フン、随分小さい男だと見くびられているようだな」

 新八は神楽からアイスキャンディーを奪い取ると、それを神楽の口に突っ込んだ。

「いいだろう。貴様の条件を飲めばいいんだな?」

 神楽は二回頷くと、口に入れられたアイスキャンディーを棒から抜き取った。

「あんひゃはいふもどほりで――」

 アイスをシャリシャリと噛みながら喋る神楽に、新八は何を言っているか理解出来なかったが、最後の言葉だけは何とか聞き取れた。

「先生なら、教えられないことなんてないでしょ?」

 新八はその神楽の言葉に意外だと驚かずにはいられなかったが、教えることが条件ならば容易いことだと承諾した。

「その代わり音をあげて泣いたりしてみろ。貴様の父親にない事ない事を言ってやるからな」

 そう言うと、新八は帰り支度をして椅子から立ち上がった。

「待って、新八」

 神楽は新八に小指を突き出すと、指切りをせがんだ。

 新八としては約束を破る気などなかったが、形式上仕方なく小指を絡めたのだった。しかし自分のものとは違う神楽の細く白い指に、新八は思いがけず顔を熱くさせた。思い返せば、女の子とこんな事をした経験などほぼないのだ。

 ただの指切りに何を考えてる。

 涼しい表情でそう思いはするのだが、赤い顔を隠す事は不可能だった。

「なんでそんな赤いわけ?」

 神楽の言葉に新八は急いで小指を離すと、鞄を胸に抱えて逃げるように帰って行った。